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【不立文字】~頓智は禅に非ず



マンガの「一休さん」の影響からか、何故か「禅」といえば「頓智(とんち)」というイメージが定着してしまっている。

「言葉」で追及する「禅」はどちらかというと『曹洞宗』の「禅」であり、開祖の「道元禅師」は言葉を駆使して教えを伝えようとした人である。

だが、一休さんの『臨済宗』は【不立文字】であり「言葉」ではなく「実践」が主体である。

ましてや「頓智」というのは「詭弁」である。
屁理屈をこねて捻じ曲げる「機智」とでも言おうか・・・・
臨済禅では最も忌み嫌われるものである。


禅の古典ともいうべき『無門関』や『臨済録』などを「読む」というとき、人は自ずと「頓智」でもするように「理屈」を必死に考える。
そうして答えを求めようとするのだが、それがそもそもの間違いである。
深く考えれば考えるほどに答えから遠ざかってゆく。

ただただ素直に向き合えば、そこに「答え」があるにもかかわらず、自ら思考の迷路に突入してゆく。

なぜそうなるかと言うと、「その景色が見えない、わからない」からである。


師弟の、問答のように繰り広げられるその物語は、師の見ている景色と弟子の見ている景色の相違から起こる問答であり、師が見ている景色を弟子がいくら思考を巡らせたところで見えるはずはないのである。

その景色を見るためには「その高み」へ昇らなければ見えない。
だがその「高み」へ行く道を「理屈」に置いてしまえば、迷路から抜け出すことは出来なくなる。
考えれば考えるほど遠のいていくのである。


いかに「師」の言葉を素直に聞けるか・・・・
「師」は「弟子」に対して「答え」を語っている。
だが弟子にはその「答え」の景色が見えない。
だから考える。
そして迷路にはまり込む。


まるで「師」が「弟子」を「試しているのか?」と思うようなことを言う。
だがそれは「常識」から外れているからに他ならない。
だから「頓智」へと逸れてゆく。



臨済禅がなぜわざわざ【不立文字】なのか?
【不立文字】なのにもかかわらず、弟子たちは「言葉」に流されてゆく。
そうしていつまでたっても答えに辿り着けない。
『無門関』や『臨済録』を見ればそれらの景色が見えてくる。


では「師」が見ている景色とは一体どのようなものであるのか?
それはその「景色」が見えるようになれば嫌でもわかるものなのである。

「あぁ、こういうことか」と・・・

古典に出てくる「師」たちは、けっして弟子たちを困らせるために不明瞭なことを言っているわけではない。
ただただ素直に「答え」を言っているだけなのである。
だが、人は「言葉」に囚われ「言葉」を頼りすぎ、「言葉」によって道を開こうとする。

『それが駄目だ。だから不立文字なのである。』

臨済宗の開祖「臨済」はわざわざそれを伝えているのだが、やっぱり人は言葉の迷路に自らはまりゆく。
言葉に囚われることで、「師」が見ている景色の高みに到達できなくなる。
なぜなら、禅が鍛えるのは『右脳』だからである。
だが言葉を追いかければ「左脳」ばかりに囚われ「右脳」がおろそかになるだからいつまでたっても「師」の見ている景色に辿り着けないのである。

右脳を鍛え霊性を開花すれば、かの「師」たちが見ている景色が目に映る。
いかに彼らが素直に「答えだけ」を語っていたかがよくわかる。



『霊性』を開花させ得なかった者たちが、言葉によって屁理屈をこねて「禅」というものを歪めている。


かの「師」たちは『霊性』を開花させ『神』への道を開いた人たちである。
日本においても『沢庵禅師』も同様である。
彼もまた『霊性』を開花させた人である。



現代においては『霊性』は「無い」こととして扱われるわけであり、だから猶更「頓智」という「詭弁」に人々ははまりゆく。

心の根底に「無いもの」としているから、尚更言葉の詭弁で曲がってゆくばかりである。

古典や経典をこねくり回し、人の言葉もこねくり回して一向に「素直に受け取る」ことが出来ない。

だから「無いもの」として定着してしまっている根底にある無意識層の認識を取り去るため【不立文字】を旨としているのであるが、それすらも「言葉」で理解しようとしているのである。




神の御言は「言葉」ではない。
もちろん「文字」などでもない。
言葉にならない『言』なのである。
それは『感じる』ことでしか受け取れない。

だから『感じる』アンテナを研ぎ澄まさなければならず、そして『感じる』の意味すら「景色」が違うのであるから。


何枚も服を着た上に一片の花びらが落ちるのと、裸の肩に一片の花びらが落ちるほどの差である。
雨粒も雪の結晶も、服の上と肌に直接当たるのでは雲泥の差である。
『霊性を開く』というのはそういうことなのである。


【不立文字】を掲げる禅の「師」たちは『とっとと服を脱げ』と言っているわけであり、言葉であれこれ屁理屈を捏ねまわす弟子たちは『四の五の言って服を脱がない』わけである。


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