能登半島地震における旅館の記録㉞
4月23日 保育園で歓迎会をしてくれる
職員の皆様と美味しいケーキを食べながらお話をする。娘や息子を担当してくれていた先生に【先生】と呼ばれるのはなんだか変な感じがする。
そうそう、保育園の先生の必需品はエプロンである。私も保育園に勤務することが決まった時にエプロンを買った。でもキャラクターのエプロンはなんだか気恥ずかしいので、シンプルなのを選んだ。シンプル過ぎると思われたのか?歓迎会の時に先生方が可愛いエプロンをプレゼントして下さった。すごく嬉しかった。私の歴代ユニフォーム、白衣→着物→エプロン。
4月24日 和倉小学校にて読み聞かせ
社長と私は数年前から月1回小学校での読み聞かせをしている。それは多田屋として地域のお手伝いをしたい!という気持ちから、社長と私が出来る一歩として小学校での読み聞かせをするようになった。朝の時間に小学校に伺うのだが、毎回可愛い子ども達が声をかけてくれる。数日前に読み聞かせの学年が決まるので、七尾市の図書館に行って本を借りてくる。この本選びは私がするのだが、なかなか時間がかかる。季節を考えてみたり、5.6年生担当になると、世相も少し考えたりする。そしてやっぱり子ども達の顏を思い浮かべながら選ぶので、これにしようか、あれにしようかと迷ってしまうのだ。
4月27日 輪島へ
震災後、何度も能登にボランティアとして訪れてくれている、私の卒業した看護大学の先生がいる。実際にはその先生の教え子ではないけれど、ボランティアに来て下さる度に多田屋を訪れてくれている。「震災後、奥能登に行っていないんですよね…。行く意味をちゃんと見つけないと…。興味本位では行ってはいけないと思っているんです…。」と先生に言った私の言葉を覚えて下さっていた先生が、「今度輪島に行くので、私と一緒に行きませんか?」と声をかけて下さったのだ。本当に私に出来る事はないけれど、看護大学の先生と16年振りに看護師免許を更新した私。先生のお荷物を持つ事しか出来ないが同行させてもらう事にした。
車中で、災害ボランティア活動の話、今まで各地で災害や震災が起きた時にどのような活動したのか、日本にはどのようなボランティア団体がいるのか、今回の能登半島地震の復興について先生の目から見て感じた事、今の看護学生や、大学病院の話。そして先生の旦那様の話に至るまで色んな話を聞くことが出来た。輪島に向かう道中、色んな光景を目にした。だけど写真を撮る気にはなれない、というより、自分の目に焼き付けるべきだと思った。先生から「ここは…こうなっていて…」と説明をしてもらいながら進む。能登に住んでいる私は何も知らず、先生のように震災後奥能登の為に尽力して下さっている方に説明をして頂くなんて…。奥能登の復興の為に私も頑張ります!と言う権利なんて私には無いかも…と思ってしまった。
でも、行って良かった。社長にも是非行くように勧めた。やっぱり現実を肌で感じるのと感じないのでは大きな違いがあると思った。拳を上げて「復興の為に頑張るぞ!」という気持ちには正直なれないほどショックを受けたが、今まで以上に、能登を離れたくないと思った。能登に寄り添っていきたいと思った。
私に出来る事は本当にわからない。でも、能登の人達と能登の子供達と手をつないでいきたいと思った。
先生と千枚田まで足を延ばした。一部の田んぼに水を張って田植えの作業をしていた。写真を撮った時はやっぱり素敵な場所だ、一瞬何も変わっていない気もしたのだが、以前自分が撮った写真と見比べて愕然としてしまった。令和6年能登半島地震、絶対に忘れてはならない出来事。後世に伝えていくべきだと思った。
続く…
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