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普通

“普通”

その言葉との付き合い方を考えた。

普通じゃないのが嫌?

昨日、自分の自覚していなかった設定に気付いたので、続けて今日も考えていた。

“設定”を確認していくうちに、“普通”にこだわっている、と気が付いた。

驚きだ。自分を軸に生きているつもりだったのに、“普通”を軸にしてしまうところだったのだ。全く、気付かぬ間に。

例えば、私がお金を稼ぐ理由は、価値を感じたものに正当な対価を支払いたいからだ。

だが、本心を明らかにする前の理由は、違った。

なんと、生活に必要だから、稼がねばならないから、お金を稼ぐことになっていたのだ!

何故こんなに違っているのか。その答えは、本来の設定を思い出した瞬間に頭に浮かんだ言葉があらわしていた。

「払うために稼ぐなんて変」
「“普通”じゃない」

変? “普通”じゃない?

それが何だというのか。

ここでいう普通とは、多数意見のこと。
普通の人が幸せに満ち溢れているように見えて憧れているのか? だから普通でありたいと?

違う。そうじゃない。“普通”が良いものだから、そう在りたいのではない。

でも、普通でないことを恐れている。

なんで普通じゃないのが嫌?

人と違うことが怖いのか。たぶん、それは本質じゃない。

どうやら、“普通”でないのは悪いことだ、と思い込んでいるらしい。

思えば、幼い頃から普通でないことを嫌っていた。「どうして私はみんなと違うの? なんでみんなと一緒にできないの?」と泣き叫んだり、「脳の構造が人とちょっと違うのかもしれないから」と検査させてほしいと言ったり。

ちなみに、親は普通推奨派ではない。だから、「普通にしなさい」と言われ続けて育ったから、は理由でない。普通の基準は個々人によって違う、とは教えられたが。

「変わってるね」とか、「違う発想があっていいね」とか言われているうちに、「普通になれない変わっている私」は、「普通な大多数の人」より優れているとでも思ったようだ。

そのくせ、「普通にしなさいって圧力に押しつぶされそう」なんて言っていたのだ。この記事は、もともとそういう記事だった。イラストも描いていたので貼っておく。

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本来、「多数派であること」と「多数派でないこと」自体に優劣は存在しない。それなのに、自分は特別だと思いたくて、勝手に優劣をつけた。

「人と違う、特別な私」は大切なアイデンティティだったのだ。

「普通じゃない私、凄いでしょ?」を自分でさえ認識できないように、「普通じゃないのは嫌」なんて正反対の認識が表に出るように設定した。

「普通に縛られたくない」なんて言いながら、縛っていたのは自分だったのだ。

イタい。イタすぎる。
だが、事実なので仕方がなかろう。イタいやつだったと受け入れるしかあるまい。

これではチルチルとミチルを笑えない。「青い鳥は家にいた」よりよっぽど滑稽ではないか。

“普通”とどう付き合うか

自分を特別視するために“普通”という言葉を利用していたことはわかった。では、これからどうしようか。

人と同じとか、違うとか、そんなことは人(や物事)の絶対的な価値とは関係がない。

比較で優劣をつける世界が幸せに溢れた世界でないのも知っている。

それでも、“普通”という評価基準は長い間アイデンティティを支えてくれた存在だ。だから、決別するには覚悟が必要だ。

でも、豊かでありたいから。幸せに溢れた世界にいたいから。
普通か、そうでないか、なんて関係なしで、

「ただ、そのものを見て感じる」

それだけを意識して生きるようにする。

これが、今考えられる、より豊かな世界にいる方法だ。