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「困ったひと」と「得するひと」

どこかの動画でメディアは他人の不幸を取り上げる、不幸じゃない場合は困らせると聞いて「なるほど」と。要は多くの人が他人の不幸を見て溜飲をさげるとか「自分より大変な人が」と思うことが多いということ。

横浜のバスが減便で大変だというのもメディアからすると「困った人を撮れる」ことでニュースにしているともいえる。この件、いろいろ見ていると12年前にバスの運転手の年収が多いという声を受けたことで、離職者が増えたとか誰かが言っていて、因果応報的な感じにも取れるが、引いてみてみると「無駄をなくして税金減って得した人」と「バスに乗れずに困った人」はイコールではきっとない。

世の中理不尽だよなと思うのは、「困った人」と「得した人」が両方いていて、よく「越後屋、お前も悪よのう」と言っていた人が暴れん坊将軍に成敗されることは実際なくて、越後屋は逃げ切ってしまうのが、通例だ。もしかすると、その子供や子孫が越後屋の業を背負うとか没落するとかはあるだろうが、当の本人に因果応報として跳ね返るケースって案外少ない気がする。

この因果って最近、よくわからないなと思ってて。

例えば野生動物に置き換えたときにハイエナのような「人の食料を横取りするやつは悪い奴だ」と一瞬僕らは思うけど、ハイエナからすると「いやいや、これって僕らの通常運転なので、それを言われてもなあ」だろう。善行や悪行というのも、時代によって変わることもある。例えば煙草を吸う人って最近だと不埒ものだが、昭和の時代は男らしさのキーアイテムだったりするわけで、いい悪いは時代でも変質していく。

とはいえ、普通の人は僕もそうだけど「いいひと」でありたいと思うわけで、そうなると時代による変質を受け入れて、変わっていく必要がある。けど、同時に僕らは老いて、頭も体も固くなっていく。まるで形状記憶合金だ。ああ、よく「●●すると、みんないいよ」的なnoteを発信する人がいるけど、あれは自身への洗脳(変質しないための暗示)なのかもしれないね。自分を奮起させるため、周りを巻き込む。逆にそうしないと、維持できないのかもしれない。

僕自身は日々ここで語っているけど、そんな洗脳ができるほどのキャラではない。自分の魂に対しては正直でありたいと思う。


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