見出し画像

「書くことが好きです」宣言

新年あけまして2頁目のnoteです。

1頁目では「1月の抱負」を書きましたので、ここでは今年1年の抱負を書こうと思います。

まずは始めてみる

少し前の投稿で、純粋意欲というものについて書きました。

私の純粋意欲=「なぜだかわからないけれども、とにかくそれがやりたくて、他人が何と言おうともやりたいもの」の1つに「書くこと」があります。

そう、私は書くことが大好きです。

…。 

ああ、言ってしまった。ついに、自分の口で言ってしまった。

「何を今更?ここのところ毎日のようにnoteの投稿をしてたじゃないか、お前が書きたがりなのは知っていたぞ」という方はきっといることでしょう。

でも実は私、「書くことが好き」と自分で口にすることがこわかったのです。

どうしてでしょうか。だれかに言うなと脅されでもしていたのでしょうか。

もちろんそんなことはなく、私が勝手にストップをかけていただけです。

「文章を書くことが好きだなんて発言を許されるのは、本当に素晴らしい文章を書くことができて、人に必要とされる人だけだ」というストップを。

でもこのストップ、よく考えたらおかしいんですよね。

ちょっと最近あおやぎさんとAやぎさんの会話をお送りしていないので、このへんでドタ参してもらおうかと思います。

*

あおやぎ「お久しぶりです!どうぞこちらへ!」

Aやぎ「え、いや急すぎて意味がわからないんだけど、どういうこと?」

あおやぎ「最近お呼びたてしていなかったのはすみません、なんかそういう気分じゃなくって」

Aやぎ「結構な言い分ですね、ほんと」

あおやぎ「面目ない、お正月ですしちょっとでいいのでおつきあいください」

Aやぎ「はいはい、いいですよ。ストップがどうとかって言ってました?」

あおやぎ「そうなんです。自分で『私は書くことが好きだ』って言うのを、どこかためらっていた節があって」

Aやぎ「ほう」

あおやぎ「なんでかっていうと、それを言ったら、自分は書く力があるって証明しなくちゃいけなくなるような気がしてたというか」

Aやぎ「でもそんな自信はないから、言わなかったってこと?」

あおやぎ「まあそういうわけなんです、たぶん」

Aやぎ「話が大きいよね〜いつもそうだけど」

あおやぎ「そう!そうなんです!このストップはよく考えたらおかしくて」

Aやぎ「何に気づいたの?ちょっと目が怖いんだけど」

あおやぎ「いや、それというのもね。じゃあ私は“素晴らしい文章を書くことができて、人に必要とされる人”という眩しい存在を、どんなふうに描いていたかというと」

Aやぎ「うんうん」

あおやぎ「野球で言うところのイチローさん、スケートで言うところの羽生くんみたいなかんじです」

Aやぎ「うん?」

あおやぎ「つまりですね、誰もが称賛する実力者やトップを走る人のようなかんじで」

Aやぎ「あー、なるほど」

あおやぎ「そういう方たちとよりによって自分を比べようとして『無理だ〜』って言ってたんですよね」

Aやぎ「おもしろいな、それ。野球やりたい子どもが『だってぼくイチローじゃないから…』って言って野球を始めすらしない、みたいなことだよね」

あおやぎ「そうそう、比べる必要のないところで無意識に比べてたんですよ。しかもいわゆる成功というか活躍している状態と今の自分を比べているので、そりゃ差は大きいわというか差しかないんですけど」

Aやぎ「成功・活躍するかどうかは置いといて、始めてみないとわからんよ、と」

あおやぎ「はい。まずは始めてみようと。そんなことを思ったわけです」

Aやぎ「気づいてよかったね」

あおやぎ「私もそう思います。あと、1つ改めて感じたこともあって」

Aやぎ「なんだろう」

あおやぎ「実は、知人が数日前に亡くなったんです。その人と仲の良かった別の人から、私を含めたグループに連絡が来て」

Aやぎ「……そうだったのか。でもちょっと待ってね。私はもう帰るよ。そのお話は自分で皆さんに向けてしたほうがいい」

あおやぎ「それもそうですよね。ではまたそのうち、来てください」

Aやぎ「お正月太りに気をつけてね」
あおやぎ「Aやぎさんも」

生きているなら

久しぶりにAやぎさんに来てもらいました。
あの人は相変わらずの様子ですね。

最後に言いかけましたが、知人が亡くなったと別の知人から数日前に知らせを受けました。

最後に会ったのは確か3年くらい前で、最近は連絡を取り合ったりもしていませんでした。

でも、週に何回か顔を合わせていた当時のその人は、そのコミュニティにあまり馴染んでいなかった私にとっても話しやすい人で、冗談ばかり言い合っていましたが、話しやすい同期がいてよかったと思っていました。

そう、同い年の人です。

25歳で亡くなったということを、しばらく理解できませんでした。

ご遺族はどんな気持ちだろう。
ここのところ会っていなかった私などよりよっぽど仲の良い、報せをくれたあの人はどんな気持ちだろう。 

亡くなった本人は、
その直前、何を思ったのだろう。

しばらく、考えが止まらないような何も考えられないようななんとも言えない気持ちでした。

その後思ったのは、「生きなくては」ということでした。

彼の分まで、などと言うつもりはありません。
彼の分は、誰の分も、誰にも生きられません。

でも私は私の分の人生を生きなくてはならないし、生きたい。私らしく、生きたい。

明日、もしかしたら今日死ぬかもしれない。
それは誰にとってもそうで、「何十年も消息を知らなかった友人と街で偶然再会した」なんてことは、本当はすごい奇跡です。

ひとりの人間が、何事もなく何十年も生きているというだけで、すごい奇跡です。

そう思うと、ひとりひとりの知人友人の存在がすごくありがたいものだとわかるし、自分が今生きているということの奇跡は、とてつもないものなんだと感じます。

もちろん、亡くなったからといってその人がいなかったことにはならない。いなかったことにならないからこそ、その人を大切に想う人々は、きっと苦しい。

だから、というと唐突に聞こえるかもしれませんが、私はやりたいことをやりたいと言いながらやっていく人生にしたいです。

できないかもしれないから、とか下手で恥ずかしいから、とかそんなくだらないことはもう言っていられなくて、「やりたいならやる」。

生きているなら、生きたいように生きる。
それだけだと思いました。

葛藤することもあるだろうし、見栄や後悔を抱えることもあるでしょう。常に自信があるとは限りません。 

それでも、自信がないことを理由に何かをあきらめたり、自分の「好き」をないがしろにすることは、もういい加減やめたい。

亡くなった人への切なさや感謝や言葉にならない想いを、苦しくて仕方ない気持ちを、そして生きていることの奇跡を、自分の「好き」を表現する力に変えたい。

「好き」って、「生きています」というメッセージのような気がします。

いろいろな「好き」があるけれど、みんなそれぞれ「好き」がちがうけれど、それを見つけるために生まれてきたんじゃないでしょうか。

「生きています」ということを伝え合うために、「好き」という感情があるんじゃないでしょうか。

もしそうだとしたら、私の「好き」も誰かの「好き」も、大切にしたい。
「生きています」というサインを、私は大切にしたいです。

「好き」を言葉にする

我が家の亡くなった祖父の写真の前には、
祖父が好きだった和菓子やお花がお供えしてあります。
「好き」をその人といっしょに供えることで、亡くなった人もどこかで生きているように思えるのでしょうか。

今まで考えたことがなかったけれど、大切な人が亡くなった後、その人の「好き」を見かけたときに辛くなるのは、その人の「生きていました」というサインを見つけたように感じてしまうからなのでしょうか。

もしそうなら私は、自分のサインをできるだけ残していこうと思います。

大切な人が自分を思い出してくれるように、私の「好き」のサインを残したい。

書くことで、それが少しでも増えていけばと思っています。

そして書くこと以外にも、自分の「好き」はたくさんあります。
ひとつひとつ、被せてあった蓋を開けて、言葉にして、大切に育てていきたいです。

今年、たくさんの「好き」を残せますように。
人の「好き」も大切にできますように。

最後に、昨年とても好きになった曲を紹介しておきます。


#エッセイ #令和元年にやりたいこと
#note書き初め





読んでくださってありがとうございます!