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書き残すことは未来の自分への手紙

昨日は年度末ということもありまして仕事部屋の大掃除をしていました。大掃除をするたびに見てしまうのが、過去に人からもらった手紙で、特に1999年のメキシコ留学中に、日本や友人のいる国から送られてきた手紙です。かれこれ25年前のものです。受け取ったその時にも大いに孤独な留学生のわたしを励ましてくれましたが、25年後の今読んでみても、変わらず今の私を励ましてくれるから不思議です。

1999年、わたしはスペイン語を学ぶ大学3年生でした。この年、大学の留学制度でメキシコシティにあるメキシコ国立自治大学に4月から12月まで長期留学をしました。当時インターネットは一部のネットカフェでしか使えなかったので、日本語でのやり取りにすごく飢えていたような気がします。しかし、その時どんなことがあって、どういう気持ちだったかはもうぼんやりとしか覚えていません。知りたいですが、今となっては知りようもありません。どうして日記を書いておかなかったのかと後悔しています。とにかく記録というものが苦手なわたしでした。

そういうわたしが今年の始めから週に1回のnoteを始め、10年日記に毎日の記録をつけていることは少し奇跡的です。しかし、それには理由があります。古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』を読んだからです。

この本は思春期の少年少女向けに描かれた本です。舞台は海の底で登場人物は海の生き物を擬人化しています。そんなファンタジックな設定です。中学生の主人公はクラスのみんなとうまくいっていません。それで、学校へ行きにくくなっています。しかし、ある人との出会いで「書くこと」について教わり、「書くこと」で成長していくという物語です。

その中にこんな言葉があります。

日記を書くのは自分だ。そして日記を読むのも自分だ。『わかってもらおう』とする自分がいて、『わかろう』とする自分がいる。『伝えたい』自分がいて、それを『知りたい』自分がいる。そこが日記の、おもしろいところなんだ」

『さみしい夜にはペンを持て』古賀史健(ポプラ社)268頁

今書いている日記や文章が未来の自分を励ましたり、笑わせるでしょう。そして、その文章があったほうが、自分というものを信じられるようになりそうな気がします。それは過去があって今があるということが実感として感じられると思うからです。

今日、昔の手紙を読んでいて思ったのは、1999年という年にわたしが1年間メキシコで過ごした時間は自分の「原点」だということです。そのときに、言語的にも人種的にもマイノリティとなり孤独を味わい、それでも友人に恵まれて生活ができた。楽しい時間もさみしくつらい時間も味わいました。その経験が今の自分に太いパイプで繋がっていることを実感したからです。そういうざっくりとしたことは手紙をみて思い出すことができます。

話は変わりますが、最近人気のドラマで「不適切にもほどがある」があります。昭和のおじさんが令和にタイムスリップするという話で、賛否両論あるドラマなのですが、楽しく見ていました。その中で、向坂サカエという40代くらいの女性の登場人物が、小学生くらいの自分と話すというシーンがあって、それがとてもいいシーンだとおもいました。タイムスリップとかしたいとは思わないけれど、昔の自分には会いたいとおもいました。そのときに、日々どんなことをして、どんな気持ちになったか、そんなことは今となってはもうわからないのです。

タイムスリップなど、普通に考えたら不可能なことなのです。1999年にメキシコで暮らしていた20歳の自分はどこにもいない。かけらもない。会いたくても会えない。20歳のわたしの物語は読みたくてもどこにもない。しかし、日記を書き残しておけば、それに近いことを追体験できそうです。その時の文字を追うだけで、その時の自分がそこに現れそうな気さえしてきます。

日記を書くことは、未来の自分への贈り物なのかもしれません。そして、『さみしい時にはペンを持て』にはこうあります。

ぼくは、ぼくのままのぼくを好きになりたかった。そして、日記を続けることですこしだけそれができている気がする。

『さみしい夜にはペンを持て』古賀史健(ポプラ社)287頁

人からもらった手紙は宝物です。そして自分から自分への手紙もまた、宝物です。自分のために書くということは、自分の未来の自分の宝物を作っているということにほかならず、その行為は自分を愛する、自分を好きになるという行為そのものだということに気づきました。25年目にしてもういちど、わたしに手紙を書いてくれた友人に感謝したいとおもいます。



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