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尊重されるべき個人

はろーこんばんわ。

個人というのは、
尊重され大事にされるべき。

この言説は広く伝わり、
良いもの、実践すべきものとして
語られ続けています。

しかし、
実情はどうでしょうか。

これがただの建前にしか
聞こえないくらいには
個人というのは軽視されています。

それは個人を大切にすれば、
社会は大切にされないからです。

逆に言えば、
社会を大切にすると
個人は大切にされません。

社会を大切にする、
誰もが住みよい社会にしようとすると
個人に対して要求される
行動への統制の量は増えていきます。

誰もが、
という言葉には
誰でも同じようにが含まれており、
個人の能力の差異を
できる限り小さくしなければなりません。

そうすると、
大抵の人が問題なくできることでも
できない人がいるなら
それに合わせて行動を統制されます。

例えば、
ごみにだした袋に
名前を書くルール。

あまりにバカバカしいですが、
ルールを守らない人がいるからこそ
その人をけん制するために
名前を書かせます。

よく言われる、
守らない人がいるからどうこうみたいな
くだらないルールたちは
不満で窮屈で、
バカバカしくみえる一方で
よりよい、
住みよい社会になるために存在します。

それは個人を尊重するという名目で
行われているものも
たくさんありますが、
実際には個人ではなく
社会を尊重するものです。

尊重されるべき個人、
その言葉に違和感があるのは
実際には行動を縛られるだけの人たちが
軽視されているからでしょう。

能力が高い人が総取り、
というのがもっとも自由であり
個人を尊重していますが、
それはあまりに踏みにじられる
人々が多すぎるゆえに
仕方がないものです。

けれども、
より大多数の幸福を
求めれば求めるほど
多くの人の多くの行動は
より制限され、
統制されていきます。

多数をとれば少数が、
少数をとれば多数が踏みにじられる。

公平はできるかもしれませんが、
平等はとても難しいように
わたしには思えます。

それではまた。