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教養とは

はろーこんばんわ。

教養という言葉は、
価値が高い人に対して
使う言葉として扱われます。

しかし、
教養というものは
いったいなんなのでしょう。

単純に知識がある、
学問を学んでいるというだけでは
教養があるとはみなされません。

良い大学を出ている人や、
たくさんお金を稼いでいる人でも
教養がないと非難されることがあるように。

もう一つ面白いことに、
たかだかヴァージニアウルフの小説を
読んだだけでも教養がある、
と思うような人もいます。

小説は誰でも読めるし、
昔は小説なんて読んでいたら
馬鹿になると言われていたのに。

ちょっとこのヴァージニアウルフの
例から教養について考えてみましょう。

ヴァージニアウルフは、
古い小説でなおかつ翻訳されたものです。

有名ではありますが、
普通の人は読まないでしょう。

海外小説にかぶれていたり、
普段からよく本を読むような人でない限り
読むことはありません。

そしてそういった人は、
恐らく幼少期から読書をしていたでしょう。

つまるところ

・家に文化的な資本がある

そういうようなバックボーンがあるように
思われます。

なのでヴァージニアウルフを
読んだだけでも
教養があるように思う人がいるわけです。

これはただ読んだ、
ということだけが評価され
それが教養とみなされたのではなく、
文化的な資本を持ちうる、
という点が評価につながった。

教養というのは、
文化的な資本を持っていること。

そういった解釈ができます。

この文化的な資本を持ちうる、
という観点で教養の有無を考えると
良い大学を出ていたり、
たくさんお金を稼いでいることが
教養と繋がらないことも
納得ができます。

それらは文化的な資本と
直接的な繋がりがあるわけでは
ないからです。

わたしの友人や知り合いにも、
良い大学出ているのに
文化的な資本があまりない、
という人はそれなりにいます。

文化的な資本というのは、
直接的な投資、
短期間の資本の注入では得難く
継続的な投資をしなければ
得られないからです。

成金と揶揄される人々を見ればわかるように。

けれども、
この文化的な資本の有無、
言い換えれば教養の有無というので
人の不出来を判断するというのもまた
わたしにはあまりよいことと思えません。

なぜなら長期的な投資が可能であった、
貴族たちが他者との差別化のために
生み出された観点だからです。

考えてみればわかるでしょう?

マナー、礼儀作法、
それらは余力のある人々の方が
良く学ぶことができます。

それを長期間訓練することで、
卑しい平民とは
生まれからして違うと
思わせるためのパフォーマンスです。

優雅さ、余裕、やさしさ。

それらもまた資本により作られるもの、
そのことを忘れてはいけません。

それではまた。