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人生と物語

はろーこんばんわ。

物語、小説や漫画その他の物語で
良くできた物語というのは

・必然性、意味のある描写が多いもの

無駄な描写が多い物語は、
あまり面白くありません。

冒険に行った少年の物語で、
延々と知らないおじさんの
話が間に挟まってても、
かなり困るでしょう?

物語の描写には、
意味や意義がなければなりません。

それらのない描写は、
ただ物語を淀ますだけです。

しかし、
そういった物語、
よくできた面白いものばかり見ていると
自分の人生もまた、
それらの物語と同一視し始めます。

そう、
自身の物語に
意味や意義を求め始める。

語られる先人の物語、
実在した人の物語ですら
語られるにあたり脚色され、
美化されて描写、起きる出来事に
意義や意味を持たされる。

ですから、
それはもはや
自然なことであるとすら
言えるでしょう。

でもどうでしょう、
語られなかった市井の人々、
すなわちわたしたちの物語には
意義や意味のあることなんて
大して起きません。
ただ生きているだけです。

むしろ、
長い目で見れば
意義や意味のあることなんて
人生においてあるのでしょうか?

語られる偉人たちですら、
彼らがいなくとも別の誰かが
同じようなことを成したでしょう。

そして彼らの誰もが、
宇宙に爪痕を残すことはできず
法則に干渉することさえできない。

いつの日にかは忘れられ、
そして何もなくなってしまうでしょう。

誰も星座にはなりえません。

意味や意義のある描写、
出来事、行い。

それらを人生に求めても、
それらが他者にとって
世界にとってという接頭語がつく限り
真に持ち得ることはありません。

また、
その言葉は呪いにすらなりえます。

他者に取って、社会にとって、
世界にとって意味や意義があることなんて
個人にとっては苦痛であることが
大半です。

偶々それらと個人の嗜好があってない限り
苦痛を得る時間のほうが多いでしょう。

意味や意義のあることかどうか。

それらを人生の物語に求めるとするなら、
自らがそう思えるものでなければなりません。

他者から見た価値ではなく、
自身がそう思えるもの。

自分の物語が自分にとって
面白いかどうか、
それらが他者からの批評に
耐えうるものかどうかは、
全くもって別物。

後者でありたいのが普通ですが、
後者であろうとするには
多大な努力、運の良さ、
他にもたくさんのものが必要です。

しかし前者であれば、
そんなたくさんのものは必要がない。

少しずつ進めていくだけでも、
そもそも世間では良くないとされる方が
面白くなるでしょう。

世間の良い悪いなんて、
ただ時代の潮流で変わり得ますしね。

自分の人生の描写、
それに意味や意義があるか。
そして、
それらが必要であるかどうか。

それらは求めないほうが楽しめますし、
求めるとしても
それは自身の評価の基準で
求めるべきでしょう。

それではまた。