見出し画像

絵画と建築が混じり合って生まれた独自のパースペクティヴをある意味では映画がすべてぶち壊しにしたのかもしれない(笑)

💀さん

に教えてもらったことをメモ的に残しておこう。
アントニオ・サンテリア、めっちゃ好きな作風だなあ。
イタリア古典主義のお皿の上に近代的な素材と発想を盛り付けてみました〜🍴😋的な、ありそうでないバランスというか。


💀さん曰く、少なくとも建前上は“実用的な建築図”の中にパースペクティヴ的な建築風景が描かれ出したのはイタリア未来派以降ではないかと。
たしかに、透視図法が使い倒されまくっていたルネサンス期において最も名声を勝ち得ていた芸術ジャンルは絵画ではなく圧倒的に建築だったと聞くが(だからもちろん、レオナルドよりミケランジェロの方が2億倍ぐらいえらかった)、それでも、それゆえ?建築の設計図は正面から建物を捉えた平面的なものや、間取図などの展開図しか見たことがなく、パースペクティヴの研究発展の成果が反映されていないような気がする。
その理由はなんなのか?


ひとつには、そもそも建築は立体物で、端からパースペクティヴ的なものだということがあるだろう。特に実用的な観点から言って、わざわざ透視図法を用いて書く必要がなかったわけだ。徒弟制度ガチガチの熟練した職人たちには平面図でも充分意図が伝わったのかもしれない。
キュビズム以降、絵画がどんどん建築的になり、逆に建築はどんどん絵画的になっていった、と言うこともあるいは可能だろう。コルビジェが再び両者を切り離すまで、二つの芸術ジャンルがほとんど一体化した短い蜜月があったように思う。
さらにここに音楽と衣装を加えた総合芸術としての演劇は、20世紀初頭のアヴァンギャルド芸術における最高権威として見られていた。このうち最も有名なのが、原作=コクトー、舞台美術=ピカソ、音楽=サティという仏ドリームチームによる奇跡の逸品『パラード』だ(内容が素晴らしかった、という評はあまり聞いたことがないが・笑)。
ここに鳴り物入りで登場してきたのが“映画”という凄まじいポテンシャルを秘めた新人くん。ルネサンスからレアリスムまで、外界の現実を切り取り自己の所有とせんとする不可能な欲求を原動力として発展してきた西洋美術は、印象派→表現主義、写真術、キュビズム、などなど、新たなアートフォームの登場によりただでさえ岐路に立たされていたところ、とうとう最後通告を言い渡されてしまった形だ。
なぜなら映画は、外界の現実の忠実なトレースはおろか、キュビズム以降のアヴァンギャルドが格闘し続けてきた「速度」「運動」「色彩」の三色弁当、おまけに黎明期には奇術や見世物として活用されていた出自とも絡んで「怪奇」「驚異」「幻想」といったアンリアルなモチーフまで、ほとんどすべての領域をカバーできる万能のニューメディアだったからである。
映画の誕生は、パースペクティヴを写し取る装置としてのそれまでのメディアとは次元を異にした、いまひとつの現実を立体的・全感覚的に構成するパースペクティヴそのものの出現だったのだ。
この時点から、演劇は総合芸術としての地位を映画へと譲り渡していくことになる。
ダダやシュルレアリスムの連中が映画(ルイ・フイヤードの連続映画『ファントマ』はマグリットらに絶大な影響を与えた)や映画様のオブジェ(デュシャンのアネミック・シネマなど)に夢中になっていたことは有名だし、そこからスペイン時代ガルシア・ロルカを挟んで同期の桜だったダリとブニュエルがパリに乗り込み共作したアヴァンギャルド映画最初の傑作『アンダルシアの犬』が生まれ出てもくるわけだが、しかしそれにしても、あれだけ運動性や速度の美に凝っていた未来派は映画を撮らなかったのだろうか?
未来派映画、というものを僕は寡聞にして知らない。
💀さんによれば、アイデアスケッチが残るばかりで、実現した未来派建築、というものもこの世に存在しないらしい。
以前からきゃつらのマッチョで力強い宣言文とオシャレで繊細で時にかわいらしくすらある作品との奇妙な乖離が気にかかっていた折、ムッソーニやファシズムとの関係からもこの線を追っていきたい。



野生動物の保護にご協力をお願いします!当方、のらです。