ギャラリーストーカーから/プチストーカー化する文化活動を思う




Twitterでギャラリーストーカーの問題が話題になっていた。
前々から美術業界に特有の作家の「在廊」システムには問題があるのではないかと思っていたが、作家と観賞者が“作品を通じて”交流を図れる機会は双方ともに有益であるはずで、それを問題含みのものにしてしまっているのはあくまでくそきしょ変態おじさんの方なのだということは忘れずにおきたい。
一方で、より一般的な話をすると、いわゆる推し文化のポジティブさを装った蔓延を通じ、様々な文化芸術の受け手の活動が「会える」「参加できる」「接触できる」あらかじめプチストーカー的な形態に一元化されつつある傾向があり、これは“作品を通じて”の交流をなし崩しにしてしまう点において実に危険だ。
これも結局、無知で受動的な観客としての大衆を甘やかしすぎたことによって(作家の側に!)回ってきたツケのひとつだとは言えないだろうか?
僕も含めただれかしらがなにかしらの分野について今現在無知で受動的であることは良い。だが、無知で受動的のままであり“続ける”怠惰を自由として奨励する言説は、結局のところ誰のためにもならない。業界全体のゆるやかな衰退を招くだけだろう。


昨今ではこのような“保守的な”言説を耳にする機会もめっきり減ったが、ふつーに考えて、作品を「知らない」「見てない」「読んでない」「理解してない」「理解したいとも思ってない」状態で作家に会いに行くのっておかしくない!?
なにか別の目的があると受け取られても仕方がない。
こんなごく当たり前の観客の選別基準を、「まあまあ」「間口を広げるという意味で」「とりあえず入口として」「作品以外の要素から入るのだってありじゃないですか?」「アートは自由なんです!」などと、優しげな笑顔を浮かべた悪い大人たちがよってたかってなし崩しにしていき、永久に無知で受動的なままでも(俺たちに)金を払いさえすればそれでいいと大衆を甘やかし続けてきた結果が今のていたらくではないだろうか?


くれぐれも断っておきたいが、こうした「一般的な作品・作家の受容の問題」を「ギャラリーストーカーの問題」とただちに結び付けるつもりは毛頭ない。
とはいえ、どう考えても無関係ではないでしょうという話。


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