評価と判断の基準

 毎日毎日めちゃくちゃ暑いですねー。わがこと村上です。
 国連事務総長が「地球沸騰化」と警告したそうですが、日本だけでなく世界中で異常気象が続いています。かくいう私も酷暑の中、見習い農家として、ドロドロのバターになりそうになりながら野菜作りに励んでいます。少しでも暑さを避けるために、早朝6時頃から作業を始めていますが、草刈り水遣りと身体を動かしていると、ピコピコとウルトラマンのカラータイマーが点滅します。作業できるのは1時間半位が限度です。

 さて、最近、メジャーリーグでの大谷選手はじめ日本人選手の大活躍が海を越えて伝わってきます。野球だけでなく、卓球やサッカー、バレーボール、ボクシングなどスポーツの世界で嬉しいニュースが次々に飛び込んでくる一方で、相変わらず悲しい事故や事件、怒りを覚えるような出来事が報道されています。
 そんなニュースの中で、私が特に気になったものの一つは次のようなものです。
 「ある町の河川敷で大人数がバーベキューをしたと思われるが、その後、片づけられた様子はなく、調理に使ったコンロなどの道具類、食べ残しの食材等のゴミが散らかしっ放しのままで放置されていた」
 その事件の結末は、去年も同様の行為をされていた町の方が連日パトロールを行っており、その際怪しいと思われる車両のナンバーを写真に撮っていて、それを元に警察が捜査、検挙したとのことでしたが、ニュースを見た時、最近の日本人ってこんなことまで平気でするようになってしまったんや、と愕然としました。

 そして、ふとこんなことを思い出しました。昔、バスに乗っていた時、小さな男の子が靴を履いたまま座席の上に立ち上がり、車窓から外を見ようとしました。母親らしき女性はとっさに「〇〇ちゃん、運転手さんに怒られるからだめよ」と叱りました。他人に迷惑をかけるからダメでなく、誰かに怒られるからやってはいけない、この手のロジックにはその後もいろいろなシチュエーションで出くわしました。言われた方はその声のトーンの厳しさに思わず口をつぐむけれど、誰に怒られるの?何で怒られるの?その人は何の権利があって私に怒れるの?頭の中は?だらけになっていたんじゃないか。でも、何度かそういう経験をしているうちに、怒る人がいなければ、あるいは怒るべき人がそのことを知らなければやってもいいんじゃないか、と学習したかもしれない。

 人は、良かれ悪しかれ何らかの行為、活動をしようとする時、それがほんの些細なことでも大事であっても、自分自身の内部で、DO OR NOT(するかしないか)の決定・決断に至る一連の作業、手続きが行われているように思います。その手順には、過去の経験等との照合など細かな付帯作業は幾つかありますが、大きく考えると、評価と判断の2つに分かれると思います。

 やっていいか悪いか、やるべきかやらざるべきか、その評価と判断を個人的に整理してみました。
 ただし、ここでは、何らかの行為は主に個人が行うもの、したがって当該個人にはその行為を行うべき理由、メリットがあることを想定しており、他方、何らかの活動は主に我々NPOのような団体が行うもの、したがって当該団体にはその活動を実施すべき理由があるが、所属する個人には必ずしも当てはまらないものと想定をしています。

 何らかの行為を行う場合は、自身の行為に対して利益よりも不利益を被る人がいるかもしれないという仮説を先に立てていますよね。これは行為者に対して不利益を被るかもしれない人との関係が、1:Nの関係であることを経験則として知っているからに他なりません。他人は自分とは違う、だから自分がいいと思っても他人は必ずしもいいとは思わない、むしろ良くないと思う方が多い、という感覚。ところが、これが個人ではなく先ほどのバーベキュー事件のような集団になると、M:Nになり、M>Nとまでは意識しないまでも、感覚がマヒしてM≒Nと勘違いし、暴挙を自己肯定してしまうのではないでしょうか。
 
 我々NPOが何らかの活動(多くの場合それは公益的活動であるが)を行おうとする場合、自分たちが活動することにより、少なくともこれこれの人には利益があるだろうと考えて活動をしますが、一般的に団体に結集する人たちは考えが似た人が多く、よく言えば一致団結しやすいが、一歩間違えば周りが見えなくなりがちになるのではないか、そうなると、M≒Nの陥穽に陥ってしまうことになってしまいます。難しいですね。

 つまるところ、私は評価と判断の基準のキモは多様性をどう内在化していくかにあると考えています。
 自分あるいは自団体以外の他者を様々な価値観を持つマンダラ、タペストリーと捉えることにより、評価と判断を誤りなく進めていけると思います。

 手前みそながら「わがこと」には実に多様な人材が集積していますが、今後どのような事業を展開していこうとも、将来にわたってこの多様性をさらに拡充することはあっても狭めることのないように留意していきたいものだと考えています。


この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?