見出し画像

Tさんのこと

 H警察署から電話があり、ああ、あれかと思った。
 予想通り、不審死した人の身元確認に協力してくれとの依頼。これ、年に数回くらいある。
二人組の刑事さんがやってきたので、夜勤の診療の合間に、医局に上がってもらい、対応した。

 見せられた腐乱死体の顔写真は、変わり果ててはいたが、確かに数カ月前に治療をしたばかりのTさんだった。
 彼のために俺が作った部分入れ歯が、ビニール袋に入っていて、黒ずんで汚れていて、小さな蝿が一匹くっついていて、それがもの悲しかった。

 80歳というご高齢ではあったが、歳よりはだいぶ若く見えた。自分は第一線で精力的に仕事をしていて忙しく、国会議員に随伴して海外出張もしていると仰っていた。
 ひょっとしてその話には妄想が入っているのかもしれない、とは思ったが、もちろんそんなことはおくびにも出さずに彼の話を聞いていた。Tさんの自慢話はいつも長くなるので必ず診療が押してしまい、どこで話を切り上げてもらうか、苦心させられるのが常だった。

 発見された時には死後3週間が経過していたらしい。刑事さんから聞かされて、Tさんが一人暮らしだったのだと初めて知った。

 いや、Tさんは幸せだったのかもしれない。長患いで床に伏すこともなく、最後まで一人自立して生活し、自宅で最期を迎えられたのだから。ピンピンコロリってやつだ。
 発見がだいぶ遅れてしまったのは、Tさんにとっては不本意なことだったかもしれない。でも、もう死んでしまっているご本人にとっては、そんなのは別にどうでもいいことだろう。

 残っている歯はどれも丈夫でしっかりしてますよ、40代くらいの歯ですよ、と少々お世辞混じりのことを言うと、そう?と真底嬉しそうにしておられた。その時のTさんの笑顔が脳裏に鮮やかに残っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?