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生かされた命 2011.3.11

2011年

当時私は仙台に住んでおり、大学卒業の月を迎えていた。

毎日のように大学の学科、部活、サークルの追いコンやバイト先の送別会で飲み会が開催されていた。

一通り飲み会を終え、連日の飲み会で疲れていたため、石巻方面の実家に帰る日を一日遅らせた。

それが2011.3.10だった。

翌日、2011.3.11 仙台市郊外の2階建てのアパートの2階。

14時15分頃目が覚めるも動く気になれず、夕方には実家に帰ろう、、、そう思いベットにごろ寝しなんとなくテレビをつけて眺めていた時だった。

あの地震が来た。

今まで経験したことのない揺れで、よろめきながらも避難経路を確保しようと裸足で玄関に向かった。

玄関のドアノブにしがみつき、なんとか転倒を免れた。

1Kのアパートの中はめちゃくちゃ。落ちた食器でガラスの破片が散らかり、冷蔵庫が動き、廊下を塞いだ。

このままではアパートが倒壊するかも、、、

そう思うほどの揺れだった。

一瞬揺れが弱まった隙を見て、裸足で外へ駆け出し、階段を降り建物から離れる。そして、また強い揺れが来た。

電柱が揺れている。至る所からいろいろなものが壊れていく音が聞こえる。

何が起きているのか理解ができない、、、そして揺れがおさまった。

同じアパートから出てきた学生達がパニックになっていた。

「この状態だと停電しているだろうし、ライフラインが整わないから、とりあえず避難所で居場所を確保しな!」

そう言い残し、ガラスだらけの部屋の中に靴を履いて入り、原付バイクの鍵とお金と携帯を持って、原付バイクで仙台中心部に住む祖父母とおばの家に走った。


あの日はここから始まった。

日常が一瞬で崩れた瞬間だった。

とりあえず、自分は生きている。家族は、、、親戚は、、、友達は、、、

同じ仙台市内に住んでいた祖父母とおばの安否はすぐに確認できたが、石巻方面の実家に住む家族と多賀城の沿岸部で働く父の安否が不明な日は、3日ほど続いた。

電話やメールで連絡が取れずSNSで安否確認ができた友達や知り合いと、街中で偶然会った知り合い以外は、誰が無事だったか分からない状態だった。

4日後、家族の安否が分からない状態にいてもたってもいられず、仙台市内からひとり、車で石巻の実家へ向かった。

家族が生きていて、ご飯が食べられていなかった時のためと、最悪自分自身が車中泊をすることを想定し、おにぎりと水を積んで走った。

もしかしたらダメかも、、、でも、生きていると信じたい、、、

そんな複雑な気持ちの中、慣れない運転とあちこち浸水する道路を進み、なんとかその日のうちに家族全員の安否確認ができた。

家族の全員の安否が確認された時、地震以来久しぶりに生きている心地がした。

何も情報がない中、親戚の家や職場へそれぞれ避難していた家族の安否がわかったこと、そしてみんなが無事だったことは今でも本当に奇跡だとしか思えない。


私の実家は1階が津波で浸水したエリアだった。しばらく水は引かなかった。

私の回りだけでも、親戚や友達、知り合いなどなどたくさんの人が命を落とした。

そして、思い出も、住み慣れた実家も、街並みも、、、あの日、あの津波で、一瞬で失った。


約2万人近くの死者、行方不明者

その中で、生き残った私たちは一体どう生きたらいいのか。


大学卒業後、東京本社の会社に内定をいただき、大阪での勤務が決まっていた私は、家族との話し合いのもと、浸水した実家を離れ、被災地に家族を残し、予定通り大阪で働くことにした。

ヘドロだらけ、家具が散乱した実家。

私が実家を離れる最終日。家の中はひどい状態と臭いのため、庭先にダイニングテーブルを出し、そこで家族みんなで何とか調達した菓子パンを食べて見送られたのを今でも忘れられない。

その時、家族みんなが一緒にいられることだけで、幸せを感じたのを今でも覚えている。

東日本から西日本へ、、、大阪という知らない土地だったが、ひとりでも生き抜いてやる、、、と心に決めた瞬間だった。


東京での研修、そして大阪での勤務。その中で、私は「被災者」だった。

私自身、仙台市内におり地震の被害はあったものの津波の被害はなかった。沿岸部が津波で酷く被災していたため、私が「被災者」だという意識はなかったが、関東や関西の人からすれば仙台から来た私も被災者だった。

何度も何度も震災時の話を聞かれ、何度も何度も震災時の話をした。

始めはその時の話をするのが辛く、聞かれることが苦痛だったが

「話してくれてありがとう。被災者から直接話を聞いたら、震災が身近に感じたよ」

そんなことを関西の人から言われた時、これが私ができることなんだなと思った。

辛くてもあの日の話をすること。そのことで「東日本大震災」を風化させないこと。

あの日、あの日の後、命を落とした方々のような犠牲者を出さないよう、今後一人でも多くの命を救えるよう、語り継ぎ、教訓にし、命を日常を大切にすることをつたえること。

あの日、一瞬で「命」や「日常」が失われた。


だから「今」というこの瞬間を大切に生きることの大事さを伝えること。

それが「生かされた私たちができること」



東日本大震災から10年。東京、大阪、仙台での勤務を経て、今月実家に帰ってきました。

色々な思いがありましたが、このタイミングで地元に帰る決意ができました。

地元は震災前とはすっかり違う景色になっています。

しかしながら、これからは地元で、地元のために生きていきたいとそう思います。

そしてあの日生き残った家族、親戚、友達と貴重な時間を重ねていきたいと、、、


近頃は台風や豪雨、豪雪などで、毎年どこかしらで命を落とされる方や辛い思いをする方が沢山います。

でも、命さえあれば、何とかなる。復興する地元を見て、私はそう思います。

これからも「東日本大震災」を教訓に、「命」「日常」「時間」を大切にしながら生きていきたいと思います。


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