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失われる色の名前

あなたが目を通して眺める世界は、一体どのような色で溢れているだろうか。人によって色の見え方は違うものだから、確たる正解があるわけではない。だがそれでも、連続的な様々な色に溢れている場合が大半だろう。そして、私たちは多様な色を表現する方法を失いつつあり、これこそが、人間が避けるべき悲しき宿命の一つなのかもしれない。

以下の文章は、色の研究や色を使った活動に携わる方々にとって、お見苦しいものかもしれない。本稿は、様々な景色、生き物、文化を見てきた個人的な経験に基づくものである。したがって、非客観的な記述から構成されていることにご留意いただきたい。

さて、私が常日頃から考えていることなのだが、現在の世の中では、色に関する共通認識が単純化されている気がしてならない。これはどういうことかというと、「赤色」、「緑色」、「青色」などの基本的な色以外の、文章で読むとか特定の場面でしか見かけないような色の名前は、使われる機会が減じているということだ。それに伴い、色に関する興味や認識も薄れつつあり、とりわけその名の由来や文化的な背景について知ろうという気持ちも生まれづらくなる。例えば、どのような形であれ、ネイビーと紺色の違いを理路整然と説明できる人はなかなかいないだろう。青色系統を引き合いに出したついでに加筆するが、昨今の日々の暮らしの中で、「縹」「藍」「孔雀」「浅葱」「花」「納戸」などの文字を伴う色に関し、その名を実物と共に体験する機会が滅多にない。

一体なぜ、色の名前に対する認識が退縮傾向にあるのかと考えたとき、少なくとも3つの要素が大きく影響すると、私は予想する。それはすなわち、合成染料、自然や文化との離別、そして記憶装置だ。

まずは合成染料についてだが、これはその名の通り化学的に合成される染料のことで、19世紀には既に登場していたようだ。様々な色の衣服を大量生産するためには欠かせない存在であり、往々にして供給の安定性、原料価格、退色堅牢性などにおいて天然染料に勝るものだ。ところで、人は合成染料が登場するまでは、動植物や鉱物から染料を得ていた。先述の「縹色」は摺り染めに使われていた露草の花に由来するようだし、他にも例えば「梔子色」は原料の一つである梔子に由来するようだ。しかしながら、合成染料の登場により、これらの原料を自然から得ることは廃れ、原料と色の名前との直接的な結びつきは絶たれたのである。

ただし、合成染料の登場で色の名前の衰退の全てを語ることは、あまりにお粗末である。例えば「鴇色」は鳥類であるトキの羽の色に由来しながらも実際にトキを原料とするわけでは無い。この他にも、原料と名前の由来とが一致しない天然染料は多数存在する。これを踏まえると、やはり人と自然、また人と文化との離別が、人と色の名前との離別に大きく影響しているようにみえる。人は産業の発達に伴い、自然や文化との離別を繰り返してきた。本邦においては、明治期以降に目覚ましい発展を遂げ、自然という不確定要素を克服し、あるいは忌避してきた。発展の中で、日本各地で大なり小なり主要地域が形成され、時を経るにつれて小さなものは大きなものへと、人口的にも機能的にも統合されていった。現在では、人口過密や限界集落という言葉を耳にするように、大都市への人口集中が進んでいる。このような背景の中で、都市からは自然と呼ばれるべきものが失われ、また都市以外の各地からは文化が失われていったのである。数百年前は本邦の各地に普遍であった、そして多くの色の名前の由来となった多様な生物や鉱物、文化などは、もはや人々の意識から消えた遠い存在に成り果てたのである。これこそが、先に述べた自然や文化に由来する名前を持つ色が現代社会から失われつつあることの、大きな原因の一つでは無いだろうか。

ただし、何よりも注意すべきことは上記二つの要素では無い、というのが私の本音である。私は、記憶装置の発達こそが、色の名前が社会から失われることを最も加速させると考えている。現代では、スマホや小型のデジカメといった、誰でも・いつでも・どこでもを揃えた画像記憶装置が充実している。その機能を用いることで、言葉にせずとも相手に画像を見せれば良いといった具合に、色の名前を用いることの必要性が低下したのは間違いない。無論、自分が見たものを、カメラや色表現の規格に沿って比較的客観性を担保した上で他者に共有できるわけで、その正確性は素晴らしいものだ。一方で、色の名前を聞いて、「ああ、きっとこんな色なのだろう」、「そんなに美しい色をしたモノをいつか見てみたい」などといった、ある種の憧憬にも似た想像が入り込む余地は無いか、あったとしても、どれほど小さな余地だろうか。ここまでの話を見て、「冒頭で出てきた『青』のような基本的な色は失われないだろうからいいじゃ無いか」とお考えの諸兄もいらっしゃるだろう。しかし、立ち止まって考えてみてほしい。私たちの日常で最も大きな青い存在は、間違いなく空や海だろう。これらは決して不変のものではなく、例えば宇宙進出に伴い他の惑星への移住が進んだ未来においては、見られなくなってしまうかもしれない。その中で、私たちはどのようにして青色を記憶に留め、また日常的に使用していくのだろうか。全ての色は、何らかの存在や現象に由来している。ともすれば、色は永縁ではなく、存在として非常に脆いということを忘れるべきでは無いのである。況や色の名前をや、である。

単純化は、人に平等な機会や権利をもたらすかもしれない。全ての人がある事象への理解を共有できることは、とても素晴らしいことだと私は思う。たがその裏では、先人たちが築き上げてきたものが失われつつある。とりわけ色においては、歴史的文脈を伴う色の写像すなわちハイコンテクストな名前が、さらには存在そのものが、急速に希薄化しているのだ。もしも日常を豊かにしたいと思うのであれば、身の回りにある色やその名前を大事にすることは非常に大きな意味を持ち、同時にこれは色以外の万物にも通ずるだろう。いずれの物においても、そこには歴史があり、意味があり、そしてなにより名前があるのだ。

最後になるが、かくも偉そうな講釈を垂れた私の夢は、日常を色の名前で過不足なく表現することである。色の名前に溢れた世界の再興は、人が自然や文化の多様性とともに歩む世界の構築に資すると信じてやまない。

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