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圧倒された人々

 日頃ソーシャルワーカーの愚痴を見聞きしていて思うのは、この人たちはソーシャルワーカーでありながら、人と環境との相互作用に働きかける専門職でありながら、そもそもこの人自身が自らを取り巻く環境に圧倒されているのだなぁ、ということです。

 ソーシャルワークの目標の中には「クライエントのパーソナリティが発展する」ことが含まれていて、その意味することの一つとして、クライエント自身が自らの環境を調節できる、自分がよりよい人生を送るために自らの置かれている環境と調停できたり、変化を加えたりできるということがあります。エンパワメントと言い換えてもいいかもしれません。
 だのに、クライエント自身が自分の人生を切り開く力をつけていくことを支援するソーシャルワーカーが、一方で自分の人生を切り開く営みから撤退してしまっているのはなんとも矛盾した話ではないでしょうか。自分がうまくやり通せないままにしてある企てを、生業として対価をもらってクライエントに求めるのは、専門職として説得力を欠くのではないかな?と感じています。

 でも、社会問題を取り上げるソーシャルワーカーたちの中に、そういう密かな無力感を見出すことは少なくないのですよね。これはわたしの勝手な読み込みなので確かめたわけではないんですけど(とはいえ、愚痴を言って自分の溜飲が下がって終わり、批判して満足して終わりの自己目的でその問題には本質的に興味も関心もないから解決のための継続的具体的な取組には一切関与しません、みたいなことではないですよね、まさか?という大変に好意的な読み込みでもあるのです)。
 自らの労働環境の過酷さ、対人関係の不調和、欲求の不満足などを、それらを解消しようとする一連の企てのあらましとしてではなく、ただ自分が困っている、不満を抱いているという形で他者に表明することの裡には、それが所与の環境条件であるという認識が少なくともいくらかは含まれているでしょう。繰り返すようですが、クライエント自身の変化を促進することもソーシャルワーカーの重要な役割です。自分という人間を取り巻く環境が変わっていく可能性を信じていないソーシャルワーカーが、果たしてクライエントが自らの環境を変化させていく可能性をきちんと信じ続けていられるものでしょうか?
 わたし自身、こういうnoteを書いているくらいですから、欲求不満はあります。自分の周りのどうにもならない要素に困らされていることもあるし、巨大な力の前に圧倒されている存在でもあります。ですがそれらを愚痴として話すとしたら、それは受けているセラピーの中だけにしようと思っています。実際にセラピーで愚痴に終わっているかと言うとたぶんそんなことはなくて、自分と他者、環境について自分がどう理解しているかを確認する契機として機能しているような気がします。そうして、自分と他者、環境との精神的なつながり方を調節できるようになってくると、欲求不満は愚痴ではなく生産的な働きかけや理解の仕方への端緒として解消されていく、という手応えを感じています。だからこそ余計に「卒後教育や個人セラピーのなかりせば」と思ってしまうのですよね。

 人間は多くの場合、ソーシャルワーカーが思う(期待する)ようには変わりません。ですが変わらないわけでもありません。自分と環境との相互作用の中で、ある時はゆっくりと、またある時は劇的に、明らかに、密かに、そしてその人なりに変わっていく可能性を持っているとわたしは考えます。自分たちが生きていきやすいように自分たちを変化させ、あるいは自分という存在を他者にわからしめる事によって最終的に自らを取り巻く環境をも変化させる潜在能力を信じています。ただし、それが環境と調和するか(要するに要請される社会適応の水準を満たすか)どうかは別問題です。というか別問題だとすることではじめて、社会規範からの要請とはパラレルにパーソナリティの発展を認識することができるようになるのではないかと思います。

 クライエントが変化する可能性を信じなければ、あるいはそれを本来不必要なはずのコストでしかないとみなすならば、クライエントを取り巻く環境が完全なものになる以外に解決はありません。それが実際には空想的で実現不可能なことは言うまでもありません。クライアントが変化していくにあたっての限界や制約は社会環境の側にも存在します。だから、社会環境の変化が人にもたらす恩恵にも自ずと限界と制約があります。そう考えたときに、ソーシャルワーカー自身が人の変化可能性、発展性を信じていないと、社会環境の限界が直ちに人間の限界になってしまう。そういう考えでは、ソーシャルワークはどこかで必ず"詰んでしまう"のですよね。人と環境を両眼視せよ、というのは詰まないためでもあるんですね。

 まとめます。ここまでに、ソーシャルワーカーの愚痴には自己の無力感の表明が含まれていそうなこと、ソーシャルワーカーがどう思っていようとクライエントは変化可能性を有していること、ソーシャルワーカー自身の無力感はクライエントの変化可能性を正当に評価することを妨げることについて示してきました。
 本稿は圧倒された支援者を焚きつけようとする意図で書いたのではありません。教育、訓練やセラピーに誘導するつもりもありません。ただ、かわいそうだなぁという思いくらいです。昔はそういう人たちに腹を立てていたような気がしますが、今はそこまででもなくなりました。もっとも、無力感に絡め取られたソーシャルワーカーをかわいそうだと感じたところで、対岸にいる彼らに対して出来ることもあまりないのですが…

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