【サーフィン小説】ビジタリズム|第5話
5ラウンド目 マエノリは犯罪です
力丸は、ボードの上に乗り直すことも忘れて、今目撃した光景を反芻していた。
ターコイズブルーのロングスプリング。ショートカットの少女。スピード。打ち上げった美しいスプレー。ボードのボトムに描かれた太陽のグラフィック。リップの上に抜けた3本のフィン。波から飛び出した少女——
(あの子が、3発当てたのか?)
いや、力丸が水中に沈んでいた時間を考えると、その前にさらに1、2発はアクションしてるはずだった。
力丸の目に焼き付いた少女のスタイルは、美しかった。波の裏側からしか見ていないが、少女が只者ではないことは、打ち上がったスプレーの形状を見ただけでも分かる。
決して身長が飛び抜けて高いわけではなさそうだが、均整のとれた身体から繰り出されるアクションは、動画で見る海外のプロサーファーのようにスムーズでしなやかに違いない。
それはきっと、身体の使い方、すべての動作が理にかなっていて、波と同化しているかのような理想的なサーフィンだ。
力丸は、もう一度少女の姿をしっかりと見たいと思った。
——あの子だ。
そう、インサイドから再びパドルバックしてくる、あの子。
ああ、まだあどけなさすら残っているじゃないか……多分、高校生ぐらいか?やはりというべきか、見ればパドルのフォームからしてすでにオーラが違うな……ストロークが大きくて、ほら、あっという間に近づいてきて……
「オイ、てめえ!!!!」
少女の怒声に、力丸は我に返った。
ああ、そうだ……俺は多分、この子の前乗りをしてしまったのだ。“多分”というのは、いまだにあの距離を追いつかれたことが信じられないからだ。
しかし、目の前までやってきた少女の憤怒の形相が、前乗りが事実だったことを教えてくれている。
「どういうつもりだよ!?こっち見たくせに思いっきり前乗りカマしやがって!」
少女は、あどけない顔立ちに全く似つかわしくない剣幕で力丸に噛み付くと、左肘をボードに乗せて胸を反らせながら、いまだに水中に浮かんでいる力丸を睨みつけた。
「あ、ご、ごめん……」
「ゴメンじゃねえんだよ!どういうつもりで前乗りしてんのか聞いてんだろが!」
力丸は、獣のような少女の迫力に完全に圧倒されていた。
「あ、い、いや……あの」
「ハッキリ喋れよ、このヤロウ!!」
「あ、あの、け、結構離れてたから、その、君が抜けてくるとは思ってなくて……」
力丸が言い終わらないうちに、少女は平手で海面をひっぱたき、飛沫を力丸の顔面に浴びせた。少女の目に宿った怒りの炎は、さらに激しさを増したように感じられた。
少女は眉間に皺を寄せ、声を一段低くして凄んだ。
「ナメてんのかテメエ。抜けられねえっつうのを何でオマエが決めんだよ?テメエのモノサシで人の技量を測んじゃねえ」
力丸はハッとした。
確かに自分は、ピークを確認した時に少女がパドルしているのを見た。それでもテイクオフをやめなかったのは、彼女が“少女だったから”ではなかったか?
もしパドルしているのが男のサーファーだったら、どうしただろう。同じようにテイクオフに踏み切っただろうか?いや、自分の性格的に、万が一を考えて板を引いていたはずだ。ましてやここは、ローカルがキツいと言われている万里浜なのだ。
少女を見たとき、彼女がローカルサーファーだと思わなかったのだろうか?いや、ローカルかもしれない、とは思っていたはずだ。ただ、“怖いローカル”だとは思わなかっただけだ。
加えて、瞬時に「あの子はこの波を抜けられない」と判断したのも、“彼女が少女だったから”ではなかったか?あの瞬間、この少女が自分より上手いことはないと、自分に抜けられない波だからこの子にも抜けられるはずがないと、無意識に決めつけていなかったか?
つまり、俺は見た目で勝手に判断して、彼女が言う通り“ナメていた”のではなかったか——?
力丸は少女の目に射すくめられて黙ってしまった。下を向く力丸に、少女は追い討ちをかけた。
「なんとか言えよこのヤロウ」
この時点で、力丸は完全に自分の非を認めていた。
これは単に前乗りをしてしまった、というミスではない。無意識のうちに人を見た目で判断した結果、引き起こした前乗りなのだ。
元来素直な性格の力丸は、そのことの重みに打ちひしがれてしまった。そして、心から素直に、彼女に謝るべきだと思った。
「……き、君の言う通りです。ごめんなさい」
その時だった。
「おいおいおい、ゴメンで済んだら警察はいらねえよなあ!」
南側のアウトサイドから、異様に野太い声が割って入った。
自分の非を素直に受け入れることで緩みかけていた心が、新たな危険を察知して再び硬直する。アウトに背を向けていた力丸は恐る恐る振り返り、声の主を確認した瞬間、絶望した。
(あ、俺、終わったわ——)
経験はないが、山で熊に遭遇した時の気持ちは、きっと今みたいな感じに違いない。
ミッドレングスのボードでゆっくりとパドルしてきたその男は、明らかに“怖いローカル”だった。
逆光の中から現れた男の全貌。坊主頭と無精髭、鋭すぎる目つき。まだ水温が上がりきっていない7月だというのに男が身につけているのはトランクスのみで、剥き出しになった上半身は格闘家のそれを彷彿とさせた。
さっき、人のことを見た目で判断すべきじゃないと反省したばかりのハズだが、撤回する。この男に関しては、見た目の印象をそのまま信用するべきだと思う。
力丸は、少女の前乗りをしたことを、いや、万里に来たこと自体を猛烈に後悔した。
ふと視界の端で、もう1人の当事者である少女が不機嫌そうに舌打ちするのが見えた。どうやらこの恐ろしげな男の登場を、歓迎してはいないようだ。
(知り合い……じゃないのか?)
しかし、男はやけに親しげに少女に向かって声をかけた。
「そうだよなあ?ナミノリ」
(な、ナミノリ?)
状況が飲み込めなかったが、力丸にはそれ以上考える余裕がなかった。なぜなら命の危険を感じていたからだ。
近づいてきた熊のようなその男は、獲物を確かめるように力丸を睨め付けながら、ぐるりと力丸の周りをパドルで1周した。
(ア、アウトレイジだ——)
力丸は無意識のうちに男の背中に彫り物を探したが、どうやら墨は入っていないようだった。
力丸の脳裏には、ユーチューブで見た、ビジターに凄む万里ローカルの映像が浮かんだが、どうやらこの男は別人のようだった。目の前の男は、ユーチューブに映っていたローカルサーファーより、かなり若く見える。
「おいニイちゃん、上等じゃねえか。ナミノリがどピークから立つの見といて、堂々と行くんだからよ。あんな綺麗な前乗り、久々に見たわ。清々しさすら感じるぜ」
「あ、あの、すみませんでした……」
力丸の思考はすでに停止していた。とにかくこの状況を脱出したい一心で、反射的に頭を下げる。
「バカか、お前は。謝って済むならオレがここまで来た意味がねえんだよ」
男の主張は全く意味がわからなかったが、とりあえず男は力丸のことを許すつもりはないようだった。
しかし、意外なことに少女が横から口を挟んだ。
「もういいって!オッキーが関わるとロクなことにならないから」
「いや、よくねえんだよ、ナミノリ。こういうことはキッチリしとかねえと万里のタメにならねえからよ」
「もうアタシからキッチリ言ったから大丈夫」
「大丈夫じゃねえ。第一、オレの気持ちが収まらねえ」
「趣味でビジターをイジメるのやめてよ」
「趣味じゃねえよ。これも万里の治安を維持する仕事の延長だろうが」
力丸は、自分を置き去りにしたまま二人が言い争いを始めたことで、身の振り方に戸惑った。そして、ふと、まだ水中にいたことに気が付くと、とりあえずボードの上によじ登った。
「おいニイちゃん、逃げんじゃねえ!」
「は、ハイっ!」
逃げるつもりなどサラサラなかったが、オッキーと呼ばれた男は、ナミノリと呼ばれた少女との会話を止めると、改めて力丸に向き直った。
「ピークにいるサーファーに気づいていながらの前乗り、さっきのはコロシなら業務上過失じゃねえ。完全に殺意が認められるパターンだ」
「なっ、コ、コロシって……」
突拍子もない話の展開に、力丸の頭は混乱した。
「アタシはもう行くよ。時間がもったいないし」
オッキーと呼ばれた男に完全に勢いを削がれた形の少女は、その場を離れようとピークにボードを向けた。
「ダメだ、ナミノリ。まだ聴取が終わってねえ」
「ちょ、聴取って……まるで、犯罪者——」
「おうよ、前乗りは立派な犯罪じゃねえか。サーフィンにおいては一番やっちゃいけねえ犯罪だろ。しかもオマエは現行犯だ」
あまりに極端な気がするが、実際前乗りを犯してしまった力丸は、ぐうの音も出なかった。
それにしても、この物言い、オッキーという男はもしかして——
力丸がある考えに思い至った瞬間、それを待っていたと言わんばかりに、男は(聞いてもいないのに)、高らかに宣言した。
「オレか?そうだよ、警察官だよ。言っただろ?ゴメンで済んだら警察はいらねえってよ」
唖然とする力丸の耳に、チッ、という、忌々しげな少女の舌打ちが耳に入った。
〜〜つづく〜〜
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?