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「バグダッド・カフェ」映画感想文と私的考察

「バグダッド・カフェ」ニュー・ディレクターズ・カット版

むか~し観たことはあった気がする。
しかし内容が全く思い出せない。
それでBSPでやっていたニュー・ディレクターズ・カット版を観直してみました。

観始めて少し経つと、アッ、ココ来たことある!…的な、デジャブ感覚。
ストーリーの先を思い出すことはできないけど、見た後は全部知ってた。ウン、確かに昔観たと感じる。

で、最後まで見終えた後に、
前回は、ヘッ?これで終わり?何の話やねん?みたいな感想だったのも思い出した。

今回は、コレは何かのメタファー?コレは何を意味している?
と、いろいろ考察しながら観ていたら新たな発見があり楽しかった。
色んな意味で時代を先取るような映画だったように思う。


ヤスミンとブレンダの関係

これがレズビアンの関係を匂わせているとは、2~30年前に観た時は気付かなかった。

今回観ていると、映画途中で🌈が出る。
すると、それまでキレまくっていたブレンダが急にデレて優しくなったりする。
ヤスミンが再訪してからの二人の雰囲気も恋人のよう。
最後にルディのプロポーズへの返事など…
アレ?そうかな?と思わせる場面がいくつかあった。

それで、ウィキで監督のPercy Adlonの欄を見てみると

has been noted for his strong female characters and positive portrayals of lesbian relationships

と書かれていた。
なるほど、納得。やはり色んなメタファーを散りばめていたというわけですね。


黒人女性のステレオタイプ

バグダッド・カフェ女主人であるブレンダのキャラクター。
いつもイライラしていてすぐキレて怒り出す。
あれはいわゆる黒人女性のステレオタイプを描いていたのかなと想像。

テニス選手のセレナ・ウィリアムズが、大坂なおみ選手との全米決勝での切れまくり主審に暴言吐いた事件はあまりにも有名です。
彼女はそれ以前にもキム・クライシュテルスとのセミ・ファイナルでも日本人線審に暴言吐いて恫喝した事件もあり、その度に風刺画とかで”典型的なすぐキレる黒人女性”として揶揄されていました。

そういうのを見ていて、ホオ~海外では黒人女性にそういうネガティブなイメージがあるんだと私は知りました。(現在は差別的な偏見だとして、そういう表現をする方が糾弾されたりします)

この「バグダッド・カフェ」は1987年の映画(日本公開1989年)なので、そういうステレオタイプを敢えて使用している可能性が有るような気がする。彼女のその前半と後半の変化や、ヤスミンとの対比としての人種や国民性の違い、多様性を強調するのにとても効果的。
当時のアメリカで黒人女性がオーナーというのは結構レアなケースな気がする。無いとは言わないけど、当時映画でそういう設定はあまり見た覚えがない。なので、彼女のキャラは敢えてわざと強調するぐらいの黒人女性のステレオタイプを前面に出して、ヤスミンとの対比を強調したかったのかなと思いました。


壊れたコーヒーマシン

冒頭からコーヒーマシンが壊れているというバグダッド・カフェ。
このコーヒーマシンがそのまま「バグダッド・カフェ」のメタファーかなと。

コーヒーマシンは熱々の茶色の液体が中を巡っている機械。
バグダッド・カフェは中に褐色の肌を持つ人たちがいる。
カッカと怒ってるブレンダ、ピアノに熱中してる息子サロモ、男や遊びに夢中の娘フィリス、店員のカヘンガだけはノンビリしてるけど、まさしくカフェ自体がコーヒーマシンみたい。

最初は皆バラバラで、家族としても店としても不全状態に陥っている。
まさに壊れたコーヒーマシン。

それがヤスミンの影響で徐々に改善していくとともにコーヒーマシンも修理され直る。熱々のコーヒーを供給できるようになる=熱いマジック・ショーのステージを繰り広げ、大勢の客が集まり熱気に包まれた場所になる。
まさにコーヒーマシンのメタファーではなかろうか。


ブーメラン

白人の若者エリックがずっとブーメランをしている。
これも何かのメタファーなんだと思う。

一番わかりやすいのは、ヤスミンが一旦バグダッド・カフェから出ていくが戻ってくる。これの暗示。

あとはブレンダの夫のサルも戻ってくる。
途絶えていた客足も戻ってくる。
(でもヤスミンの夫は戻って来なかったな…。)

もっと人生における何かが戻ってくる的な重要なメッセージがありそうだけど、どうでしょう?


砂漠と給水タンク

砂漠は、心が乾ききっているブレンダを象徴。痩身のアメリカ人。

一方給水タンクは、豊満な肉体のヤスミンの分身。森の国ドイツからやってきた。古くからの歴史もあり、リッチな文化(バイエルン地方の衣装など)をバグダッド・カフェの住人達にみせてくれる。
ヤスミンが給水タンクを磨いているポスタービジュアルもそうだけど、あれは彼女の分身として描かれていた気がする。


幻日 二つの太陽

ヤスミンの部屋に飾られていた二つの太陽=幻日の絵。ルディが描いたもの。
これはヤスミンとブレンダという二つの光を表していたということかと。
二人がこの後輝いて、バグダッド・カフェを照らす2つの光になることを示唆していた?

そして、ヤスミンが右肩にその幻日の絵のタトゥーを入れて貰う。

いまでこそアメリカ人はタトゥーまみれの人多いですが、当時はそこまでメジャーではない。でも好きな人の名前のタトゥーを入れるというのは偶に出てくる表現だった。
そう思うと、ブレンダと自分のメタファーである幻日を入れたということは、愛する人の名を刻んだという意味だったのでは?

あと幻日は水蒸気か何かでのように太陽が反射した現象。
一見正反対のブレンダとヤスミンだが、じつは鏡面に映った同じような人物ということだったのかも?
砂漠で見られる蜃気楼同様、幻日もまぼろし。バグダッド・カフェも、そこでのマジック・ショーでの楽しい時間も、全て魔法にかかった様な幻の時間という意味も込めてるのかも?

「幻日」の意味をググってみると、
縦の虹である幻日を見たときは幸運のサイン
「よく頑張っているね」「そのままで大丈夫」というスピリチュアル的意味もある。この辺りも登場人物からのメッセージ、この映画から観客へのメッセージ、多重的な意味として捉えることが出来そう。


「I'm Calling You」は神の啓示?

Jevetta Steeleが歌う「I'm Calling You」が何度も劇中で流れる。

Calling とは 神の啓示的な意味になることがある。
神に呼ばれた、神が呼んでいる、そういった感じ。

この映画で「I'm Calling You」が何度も流れるのは、神に呼ばれてヤスミンがやってきた、彼女は神の御使い的な意味もある気がします。そしてこの荒れたカフェに魔法をかけて再生していく。

手品は英語だとMAGIC つまり魔法。魔法使いのおばさんヤスミン。
ここは非常に分かりやすい。

超深読みすると、終盤のヤスミンとブレンダの手品ミュージカル・ショーで、結構長くステッキの空中浮遊マジックをやっていた。
アレ、ちょっと尺も長いしクドイなぁ~と思ったのですが、女二人が棒(男根=男)から手を離している、つまり棒が要らない状態=男に頼らない状態を意味するメッセージだったのかも?

あの場面でのブレンダが非常に歌が上手くて、ただのカフェ兼モーテルの女主人がなんでこんなに上手いんだ?プロ並み!と思わずにはいられなかった。ここにも黒人=歌が上手い的なステレオタイプのイメージが反映されていたのでしょうかね?

女性主人公二人が最後、ミュージカルで小道具使って踊るというのは「シカゴ」をちょっと思い出しました。シカゴの映画は2002年だけど、舞台は1975年初演だから影響あったりするのでしょうか?

歌詞の「人生はローギアに入れて♬」という部分が心に引っ掛かりました。
時にはゆっくりじっくり進むことも必要だよねというメッセージでしょうか。イイですね👍


黄色いコーヒーポット

序盤から意味深に映る黄色いコーヒーポット
ヤスミン夫婦の車の中にあったのを、夫が道端に放置。
(一応喉が渇くかもしれない妻の為に置いていったのか?謎)

それをブレンダの夫サルが拾ってバグダッド・カフェに持ってくる。
そこからは店員カヘンガが使用するようになる。

あれは何か意味があるように思うが、何だろう?

「Rosenheim」というステッカーが貼られている。
ローゼンハイムとはドイツ南部、ヤスミンの出身地。

しかしローゼンハイムの意味は「バラの家」。
このポットを持ち込まれたことによって、バラ色の繫栄をする家になるという暗示という気もします。

他にも黄色いポットやポットに関連するものに何か意味がないかと探してみたところ、「ラッセルのティーポット」という宗教や哲学における概念を表す言葉があるようです。

ラッセルのティーポット(英: Russell's teapot)は、哲学者のバートランド・ラッセルが初めて提唱した概念で、とくに宗教に関して、哲学的な議論における立証責任は科学的に反証不可能な主張をしている側にあるのであり、もう一方に反証責任を押し付けるものではないことを示すアナロジーである。天空のティーポット宇宙のティーポットと呼ばれることもある。ラッセルによれば、宇宙のどこかに地球と火星の間を通って太陽を周回するティーポットがあると主張する者が、それは誤りであると誰も証明できないことを根拠にして、周回するティーポットの存在を信じることを求めるのはナンセンスである。ラッセルのティーポットは、神の存在をめぐる議論においていまなお言及されることがある。

コーヒーポットをこのテイーポットと掛けている可能性もありそうです。
神のこと、宗教、哲学的なものの象徴と言われるとなんか納得です。
この寓話の様な物語。カフェもヤスミンも実際に存在しているような幻のような、存在を信じてもいいし、信じなくてもいい、哲学的な問いかけなのかもしれません。


ルディの絵

ルディが描く豊満なヤスミンの絵は、南米のピカソことフェルナンド・ボテロが描く豊満な女性たちを思い浮かべてしまいました。

ボテロ展の題が「ふくよかな魔法」まさにヤスミンのことを言っているようですwww

ヤスミンが段々薄着になって行く。そして熟れた割れ目のある果物を持っている。
ルディは苗字がCOXコックス。コレはズバリCocks=ペニスのことだと思われるので、この絵を描く行為がセックスと結び付けてるのは明らかだと思います。
(絵を描く行為はエロティックに描写されるのはお決まりですよね。タイタニックでも似た感じで、その後二人はセックスするし)

なのでこの行為を疑似セックスと捉えると、ヤスミンとブレンダのレズビアン的関係の示唆は何なんだろう?と迷います。
実際ヤスミンは自分から乳房を見せたり、ノリノリになって行く描写もある。しかし最後の最後で「ブレンダに訊いてみるわ」とルディのプロポーズを焦らす?はぐらかす?
部屋に入れる時も「紳士として?画家として?」と訊いておきながら、少し逡巡するも結局下着姿で迎え入れる。あの”間”は何だったのか?男として入ってきたルディとそのまま寝ることになってもいい…とも取れるんですよね。

このヤスミンとルディの関係がこの映画においてどういう意味があったのか?非常に気になりますが、今ひとつ腑に落ちない。

そしてヤスミンとブレンダ二人のレズビアン関係を示唆しているのだとしたら、ブレンダが夫サルが戻って来た時に普通に嬉しそうにしていたのもよくわからない。
結局は同性愛者はヤスミンだけということなのでしょうか?子供がいなかったのも出来なかったのではなくて、極力避けてきたからとか?

でも私は、ルディもヤスミンの気持ちを分かった上で結婚をオファーしたような気もするんですよね。当時のアメリカは同性婚が認められていなかったので、敢えて自分と結婚することでブレンダの近くにいれるようにしてあげようとしたのではないかと。


赤いバラ

ヤスミンが手品で赤いバラを出してブレンダに渡すシーンがある。
他の手品はいかにも手品の小道具っぽい花だったのに、このシーンだけ生花のバラだったように思う。砂漠のカフェでどうやって手に入れたんだ?と思うわけです。わざと生花にした理由は何だろうと考える。

薔薇といえば「薔薇族」のように男性同性愛の象徴のように日本では扱われます。しかし日本では百合と言われるレズ要素も海外ではあるのではないだろうか?と考えてみた。

すると知恵袋でこんな回答がありました。

おそらく sub rosa、ラテン語で「薔薇の下」という表現に由来しているんだと思います。これは「秘密に、内密に」というような意味があります。

薔薇の由来に関する知恵袋

そして赤いバラの花言葉は…
英語(西洋)の赤バラの花言葉:「passion(情熱)・I love you(あなたが大好きです)・love(愛情)・beauty(美)・romance(ロマンス)」
(日本の赤バラの花言葉は「情熱・愛情・美」)

よって、「内密に愛しているわ」とヤスミンがブレンダに告げていたシーンとも解釈できます。


オリジナル版とディレクターズ・カット版の違い

ディレクターズ・カット版には17分ほどのシーンが追加されているそう。

例えばルディがヤスミンを描くシーン。下着姿のシーンとかは無かったと言及しているものを見かけました。

そして一番の違いはこの場面だと書いているサイトがありました。↓

オリジナル版ではジャスミンがプロポーズされ、ジャスミンにハッピーエンドが訪れることが示唆されています。完全版ではジャスミンがプロポーズされることに加え、ブレンダ自身も家出した夫と抱擁し合うという、ブレンダ自身にも幸せが訪れることが示唆されています。

参照サイト

オリジナル版ではブレンダが夫と復縁するシーンが無い
そしてヤスミンとルディが疑似セックスのような絵を描くシーンもなかった。
ということは、オリジナル版は監督の意志でより男との関係を排除し、レズビアン要素が強かったんだということがわかります。

カットシーンを追加したことで凡庸な作品になったという意見もあったので、確かに二人の女性が結局男と結ばれるというよくある感じになったのは否めないですね。

これを知ると前項での、ブレンダが夫と復縁などの疑問は解決しますね。
しかし主題がブレる結果になるならディレクターズ・カット版を出す必要なかったような…。

追記:海外サイトでオリジナル版とディレクターズ・カット版の比較をしてくれているサイトを発見。

これを見てみるとルディの絵を描いている部分、下着ポーズ部分がカットではなくてシーンの順番が変えられてる模様。そうなると…う~ん、やはり二人の親密さを表すという点では変化なしということか。そこまでレズビアン要素にこだわっているわけでは無いのかもしれませんね。


2019年の、日本上映30周年に際して書かれたコチラの記事。
日本上映時の裏話や、映画、俳優、楽曲に対する話など非常に興味深いです。

私的に興味深かった部分を抜粋してみます。↓

17週間(約4か月)のロングラン公開
*映画に登場するカフェには、おとぎ話の中のネバーランド(どこにもない場所)のような感覚があり、ひとつの理想郷として描かれる。
*最初のタイトルは“Lost and Found”(「喪失と再生」という意味込めて)。次に「アウト・オブ・ローゼンハイム」。そして現題へ。
*美術監督は映画化にあたって3つの提案をしたという――「給水塔を作ること」「給水所には屋根をつけること」「モーテルにネオンのサインをつけること」
*映画の色調に関しては、ダリの絵画を意識し、監督がいうところの「緑っぽい不思議なやまぶき色」をモチーフにした。
*ヤスミン役マリアンネ・ゼーゲブレヒト 監督の前作「シュガーベイビー」にも出演。「醜女(しこめ)の大年増」「ドイツの京塚昌子」などと表現された。ドイツの前衛的な舞台で「ミュンヘンのサブカルチャーの母」と呼ばれていた。
*ふたりは『カラー・パープル』(85)を見て、ウーピー・ゴールドバーグを『バグダッド・カフェ』の共演者に考えたこともあった。
*ルディ役、大ベテランの男優、ジャック・パランス。当時もう70歳。シナリオを呼んで8日間で出演をOK。『シティ・スリッカーズ』(91)で老カウボーイを演じて、73歳にしてアカデミー助演男優賞を獲得。
*マジックの場面。マリアンヌは5か月間の特訓を受けて、手品を習得した。
*監督はガーシュウィンの名曲「サマータイム」みたいな曲を書いてほしいというリクエストして「I’m Calling You」が出来た。
*作曲家ボブ・テルソンがアメリカからドイツの監督に電話(=Calling)して歌を聴かせた。
*こわれたコーヒーマシンとは、当時ヨーロッパにいた彼女と別れた、まさにその時のボブの心そのものだった。
*実は映画公開前から、曲がすでに一部で話題を呼んでいて、特にファッション・ショーなどでよく流れていた。
いつの時代にも通用する心の問題が描かれていたおかげで、根強い人気を得た。
*人種を越えたコミュニティを作っていくところが新鮮に見える(ヤスミン役のゼーゲブレヒトは「女性による新たな家長制度を描いた作品」と解釈しているようだ。だから、最後は「ブレンダに相談するわ」という意味深な言葉で終わる。
*舞台になったカフェには世界中から多くの人がやってきて、到着すると感激して泣き出す人さえいる。

ダリの絵をイメージしたというのはよくわかる。砂漠っぽい絵が多いですから。シュールレアリスムの不思議な世界観は通じるところがある。

あとウーピーにオファーとか、「カラー・パープル」とかもヘェ~という感じ。カラーパープルも少し百合っぽいところあるんですよね。

ヤスミン役のゼーゲブレヒトによる「女性による家長制度」という意見を考慮すると、男によるホモソーシャルな家父長制社会へのアンチテーゼ、風刺的な意味合いもあったのかもしれませんね。そうなるとホモセクシュアルっぽいけどホモフォビアになるホモソーシャル同様、レズっぽいけどレズにはならないディレクターカット版の意味も理解できるような気もします。


昔観た映画を久々に見直してみると、また新たな視点で見れて面白いですね。(観直してもつまらないのもあるけど(;^_^A)
自分の成長、新たな視点の獲得、ネット普及による他者の考察の閲覧で多くの気付きがあるのが大きいです。この映画がなぜ人気があったのか、30年経ってようやくわかった気がしました(遅ッ!!www)。

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