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雨の日のスーパー

雨の日は、傘をさして歩くのはもちろん億劫なんだけど、スーパーとかデパートとか向かった先が空いていて、いつもより時間をかけて自由に見てまわれるから好きだ。今日は近所のOKマートまでに行って、焼きうどんの具材(玉うどんや豚肉、なぜかもやしも2袋入れる)や息子のおやつ(タピオカミルクティー的なものやファミリーパックのアイス、コーヒーゼリー)、自分の食べたいもの(豆乳ヨーグルト、バナナ、5%引きの鯵のお寿司)を買ってきた。少々加工品を買い過ぎてしまったかな?と思ったらやっぱり3千円ほどのお会計になってしまった。もっと切りつめるべきかな、と思うこともしばしばなんだけど、息子のことを考えるとどうしても、プリンやアイスを買わなければ、という思考になってしまう。夫とふたりなら卵おじやで一週間暮らすこともできるような気がする。どうして息子が(しかもたったひとり)いるだけで生活の規模がこんなにまで膨らむのだろう。そのどうにもならなさがまた、楽しくもあるのだけど。

昨晩は3人で短い家族会議(5分もしないで終わったけど)が開催された。わたしが日頃の息子の態度のことで怒っていて、「だったらR太朗と話さなきゃダメじゃん」と夫が言い、ちょっと話そうということになったのだ。「最近ママとの会話を億劫そうにしたり部屋に閉じこもっているけど、ママに何か言いたいことがあるの?」と息子に訊いてみると、「何もない」とあっけらかんとしていた。ただ春休みモードなだけ、と。そしたら夫が「あー、ママの勘違いだったね」というふうに、その場をさっとまとめてしまった。「ママもR太朗も、家にいるどうしがラインで会話するのはあんまりよくないんじゃないの、直接話せば誤解はなくなるんだよ」。夫はラインのやり取りが嫌いなのであった。息子は、話が済んだころあいを見計らってそろそろとまた自室へ戻っていった。

息子はわたしに気を遣ってか、今日は昼食後の自分の食器を洗っていた。自分が19歳のころはどんなだったか、最近よく思いだす。母の手伝いも自分が言うほどやっていなかったかもしれない。自立してやる、という思いが強かったけれど、思ったほどにはうまくいかなかった。ひとり暮らしも夢見たような生活ではなく、学業が疎かになるほどアルバイトをし、食費を切り詰めた結果入院したこともあった。都内の自宅から学校へ通う友だちが羨ましかったが、実家暮らしの子たちはその子たちなりに面倒なことがたくさんあったのだろう。世話になっている身分であっても、親というもの(とくに母親というもの)はウザいものなのだ。思えばわたしも母に冷たくしていた。冷たくしてもそう傷つきはしないだろうと思っていた。つまり、存在を軽んじていたのだ。

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何をするというわけでもなく、もう夕方になってしまった。今日は庄野潤三の小説を読もうと思っていたのだけど、気持ち的にめんどうくさくなっている。気圧のせいもあるけど、もともと電池が切れるのが恐ろしく早いのだ。

こんなふうな、いろんな細切れの時間のよせ集めがわたしの日常だ。結婚生活はそのよせ集めをさらによせ集めたものだ。息子が成人した今、自分の人生はもう老後なのだと感じるようになった。母にこんなことを言ったら、生意気だ、とか、短絡的だ、とか叱られそうだけど、幕を引くに引けずに生き続けるというのもなかなか苦しいものなのだ。来月45になろうというのに「不惑」に至らないということは、わたしがまだまだ幼いということだろうか。


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