さくちゃんのココロ
駅に向かう途中、交番があって、もうそこに電車が見えているという時、ふと頭上を見上げた。
すると、ちょうど青虫のような色の葉が何枚もこちらを覗き込んでいた。
その有機的な明るい緑は、私の頭の上でさらさら、と聞き覚えのないほど爽やかな音を立てた。
一枚一枚が丸く、小判のような形。それがお互いに少しずつ重なり合っている。
葉と葉がやさしく撫であう様子をみながら、私はそこからしばらく動かないことにした。首が痛くなったら少し休んで、また見上げる。それを繰り返す。
けんとを待っていたのはその前の晩だった。同じく、駅の前の、この場所。駅前だというのにほとんど街灯がないため、探してその下にいるようにした。それでも古ぼけた光ははっきりと私を映し出さない。
だれかと待ち合わせるとなれば駅かコンビニがいいな、次は。
けんとはいつものスラックスに首のところがよれたTシャツを着て現れた。まだ夜は肌寒いというのにすっかり半袖で、でも彼が衣替えなんてすることは想像できなかった。
よお、姉ちゃん。
暗闇の中のその人は言った。
違うよ、私。浪は呼んでないの。
知ってる。わざと。
見えないのににやけているのが分かった。
けんとの足元には小さな石柱があった。車両侵入防止用なのだろうが、こんなところに入ってくる車も、あるいは駅から出てくる誰かを迎える車もなかった。それを私は妙に寂しいと思い、その気持ちを隠すために
つまずかないで
と言った。しまった。またやってしまった。
私はいつも、その役だった。浪子が絶対にしない、お姉さんの役だったのだ。
けんとはようやくその石に気がついて少し迂回してきた。街灯の下に二つの小さな影ができた。
知らない人なら、こんな暗闇で私と浪子を見間違えることくらいある、と言うだろう。
たしかに私たちの背格好は似ている。生まれは違っても一緒に暮らしていればそうなることもある。
でも違うのだ。私と浪子は別の人間だ。けんとが保育園を嫌がってなかなか玄関でぐずっていた頃から、もうずっと私たち3人は一緒だ。
だとしても、やっぱり別の人間なのだ。
へえ、なんで。
なんでって。
姉ちゃんはなんで呼ばないの。
私たちは別の人間なんだ。ずっと一緒に暮らしていたとしても。
けんとは小さな虫が集る街灯を見上げて眩しそうにした。
まつげが色を失い、光った。瞳孔がぎゅっと縮まるのを見て、ああもう出口がないと思った。
私は父と母の間に生まれた子だった。母が他界してまもなく、父は一人の女性と子供を二人連れてきた。
言ってみればそれだけの事実なのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
今日は浪は呼ばないの。私とけんとだけ。
へえ、なに、なんかサプライズとか。
サプライズ。
ありえないな、僕らは。
私たちはそういう家族ではなかった。誰かに隠れてプレゼントの相談をしたり、登場をめがけてあえて身を隠したりすることはしなかった。
あの家に、そういう時間はなかった。
父の姿をほとんどみかけなくなったころ、私は就職先で得た金を貯めて家をでた。高校を卒業した浪子とけんとがそれに続いた。
二人が自分を頼ってドアベルを押したとき、とてもうれしかった。浪子のスニーカーがいくつも並んだ時も、けんとのシャツが小さなベランダに干された時もよく覚えている。
それでもあの時、また小さな絶望を感じていたのも知っていた。それが何なのかわからないまま月日は過ぎたが。
その絶望の正体がまさか、これだったとは。
サプライズ。あるよ。
私が言うと、けんとはぎょっとした。その表情は久しぶりに見た。たしか、私が彼にアパートから出ていくように言ったあの日のことだったように思う。
けんと、私。だれと付き合ってもうまくいかない。どの男の人も何とも思えないの。
その時、頭上ではこの葉たちがお互いをこすりあっていたはずだ。
でもその時は、こんな透き通る緑色じゃない。夜の海に頭からダイブするみたいに、どす黒い空間が広がっていた。
影という影が連なる、どこまでいっても解けない闇。
彼は眉間にしわを寄せた。
知ってるよ。前から、さくちゃんはそうだ。
久しぶりに彼の口からそれを聞いた時、自分の名前を思い出した。
それはどうしてだか、考えたことがある。
私の声に反応するように彼は肩を揺らした。そして右側の頰にゆっくりしわを作って苦笑した。
苦笑。ほんとうにその表現がぴったりで、それでもすぐに重力に耐えきれなくなって口角を下ろした。
私が見つめてきた口角。紙にひとすじ入れた刃物の切れ目のように、その動きはいつも心もとなかった。
あるよ。さくちゃん。ある。
先ほどまで足元に散らばせていた視線を、ようやく私の方に向けた。瞳孔は元に戻っている。
つまりあれだろ、ほら。さくちゃんは僕が好きで、もう家族としては見られなくて、小さい頃から一緒に住んで兄弟みたいにしてきたけどどうしてもそういうようには付き合えないって。それで他の人と試してみるけど、うまくいかない。僕がいるから。そういうことだろ。
昨晩とは打って変わってすっかり明るくなってしまった今日の空。それが、葉の間から小さく切り取られて見える。
この空の色が変わる前に、彼はここから出て行ったはずだ。この街から。
この、大きいとも小さいとも言えない街から。育った町よりは大きくていろいろあって、それでもやっぱり退屈なこの街。
もう知ってるよ、ずいぶん前から。さくちゃんのココロはわかってる。
舗装された道に規則正しく埋められたレンガの、その隙間をスニーカーの先でなぞる。その癖は小さいころからだ。
同じ色のレンガだけを踏んでいいゲームを、最初は一緒にやっていた。
いつの間にか私が抜けて、浪子が抜けた。彼はずっと、それを一人でやっていたのだ。
僕が出ていくようにするよ。さくちゃんと姉ちゃんはいままで通りがいいと思う。この街でふたりで暮らすのが。
この薄い緑の妖精たち。秋になったらあのほど無抵抗に地面へ落ちてゆくのに。
開いていた時間を忘れたように小さく枯れてゆくのに。
今は、ただ細い枝に連なっていることだけが生きる方法だと知っている。
その一枚一枚が、やはり変わらぬ様子でさらさらとこすれあう時、それを打ち消すみたいにして電車の入線を知らせるメロディが流れた。
彼が闇夜のホームで聞いたかもしれないそれを、今日は私は聞いている。
目を閉じるとかすかに残る、緑色の光の中で聞いているのだ。
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