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マシュマロお返事 『自分を承認しない推しに惜しみない承認を与えることにどのような動機や魅力があるのか?』

昨日こんなツイートをしました。

自分のメモ書き程度にツイートしたものの意外と反響があり、マシュマロなどでこのツイートに関していくつか頂いたりもして、そのうちのひとつにnoteでお返事をしようかなと思います。

はじめまして。 突然のマシュマロ失礼いたします。
私はたまたまTwitterのおすすめ欄で🧠さん(注釈:🧠さんとはわたしのことなんだけど、マシュマロの名前を適当に設定したのでなんだか申し訳なさがある)のツイートを拝見して、少し気になることがあり、こうしてマシュマロを送らせて頂いております。もしお時間に余裕がございましたらご回答頂けると嬉しいです。

またしても突然ではございますが、私は大学生で現在卒論で「推し」と自己(自分らしさ)との関係性について考察をしています。そこで、🧠さんの「たとえば自分がスビンちゃんから離れても〜中略〜私がアイドルを好きな一番の理由」というツイートについてもう少し詳しく教えていただくことはできますでしょうか?💦

自分を認識(承認)していない存在である「推し」に、自分は惜しみない承認を与えることに、どのような動機や魅力があるとお考えでしょうか?

分かりづらい説明で申し訳ありません。もしご回答頂けた場合でも、🧠さんのツイートを研究に引用するなどは致しません。あくまで考察を進める初期段階での思考として参考にさせていただけたら、と思います。

本当に突然長文のマシュマロですみません💦ここまで読んで下さっていたら、本当にありがとうございます😭😖簡単で本当に構わないので、なぜ、自己を承認しない存在の「推し」(アイドル)が好きなのか、理由があれば知りたいです…🥲

最初はいつも通りツイートで返事をしようと思ったのですが、大学の卒論のような立派なものの一部にわたしみたいなキモオタの意見が……?とちょっと戸惑いつつもとてもうれしい気持ちで考えていたら長くなったのでnoteでお返事します。ちなみにこの記事で言う「アイドル」は主にK-POPのアイドルのことを指します。以下自分が書きやすいように文体を変えて書きます。

自分を承認しない推しに惜しみない承認を与えることにどのような動機や魅力があるのか?

自分の意思ひとつで始められ、終わらせられる関係性

例えばすごく好きになって付き合った恋人になんとなく冷めてきて、しかもいい感じの人が現れても相手のことを思うと突然無言でブロックするとかちょっとやりづらいし(人によるかもしれないが…)、職場や学校でちょっと自分とは違うかも、合わないかも、っていう人がいても顔を合わせないわけにはいかないし、という感じで、生活をしていると自分の意思通りにいかない関係性がある。

アイドルを好きになっていいなとまず思うのは、好きになるのも離れるのも自分の意思ひとつで行えることだ。先ほどの例で言うとわたしは恋人にブロックされたら傷つくだろうなと思いいい感じの人が現れても相手を一方的に切りたくなる衝動を抑えるだろうし、職場や学校なんかで関わる自分と合わない人の前でもおとなしく愛想笑いをして過ごすだろう。

しかしアイドルならどうだろう。学校や職場などの人間関係と違って、アイドルとファンの間には絶対的な距離が存在している。この距離があるからアイドルは「ファン」以上の自分を認知することはないだろうし、自分の知らない人が離れたところでアイドルは傷つくことも喪失を覚えることもないだろう(例えばファンの数が減ったような感覚はあるかもしれないが、それは無数の「ファン」であって「自分」のことではない)。そのまま別のアイドルに夢中になったとしても、かつて推していたアイドルはそのことを気にもしないんじゃないかと思う。人間関係がめんどくさい自分にとって、この距離感はすごく気楽に感じる。

ただマスターだったりすべての本国ペンサに通っていてアイドルに認知されている人なら「最近イベントとかに来てないな」と思われるとかはぜんぜんありえそうなので例外も存在するのかもしれない。しかし勝手に好きになって離れたくなったら離れて、っていうのはリアルの人間関係だと難しいので、ある意味でファンというか受け手特有の恵まれた選択肢なのかもしれないと思う。


アイドル/ファンの間に横たわる絶対的な距離

自分が好きなグループに対して重い感情を抱いていると自称するおたくをよく見る。わたしもそうなんだと思う。幸せになってほしい、つらい思いをしないでほしい、かわいい、大好き、愛している、などアイドルを思い遣った素敵な言葉が多いが、冷静に考えたらアイドル本人たちは自分のぜんぜん知らない人たちからこういうことを狂わんばかりの凄まじい熱量で思われている。もし自分の知人から同じような感じで思われていたらちょっと怖い。恋人とかなら重すぎて距離を置くだろう。しかしアイドル/ファンというある絶対的な距離感が約束されている関係性になるとこれらの言葉や熱量は応援になる。

身近な人に対してアイドルに感じているようなことや、それに似たことを思っても本人に言えるだろうか。人によるかもしれないが、わたしは無理だ。万が一思ったとしてもキモがられそうだから本人には絶対に言えない。しかしアイドルとなると話は別だ。ツイッターではアイドルへの愛情を絶叫し、ヨントンでは恥ずかしげもなくサランへと言うし、コンサートでポエムのような内容のボードを持てるのはひとえにわたしと推しのアイドル/ファンの関係が崩壊することは絶対にないだろうという安心感があってこそだ。

推しとわたしはアイドル/ファンでいる限り永遠に隔てられている。この関係で居続ける限り双方の距離が縮まることはないけれど、この距離は同時にアイドル/ファンの双方を守る距離でもある。ファンがどんなに大声で愛してるとか結婚してとか浮わついたことを言っても、アイドルは受け入れてくれる。現実で好きな人がいたとして、その人に対して同じ行為をしたら引かれるはずだ。その行為が許され、アイドル側からも好意的に思われるのはこの距離感が揺らぐことがないという思いがアイドル側にあるからだろう。だからこそわたしはアイドル/ファンという距離が一切揺らぐことのない距離感に対してとてつもない安心感を感じているし、心から特別だと思う。そしてこの関係性は近くて遠い他人のようなアイドルを推す(=承認を与える)一番の醍醐味と感じている。


責任の伴わない愛情

長くなってきたのでこのあたりで終わりにしたいと思っているが、要するにファンが、というかわたしごく個人の、あまりにも個人的な「自分を承認しない推しに惜しみない承認を与えることにどのような動機や魅力」は「責任を持たないまま他者に夢中になったり愛することが可能だから」と思っている。

生活していると誰かと関わることを避けられない。そしてその無数の誰かとコミュニケーションを取っていく中で、例えばけんかをしたり、ふとしたことで相手と気まずくなったり、人から好意を持たれたりする。自分の何気ない言葉で他人の人生すら良くも悪くも大きく変化していく可能性だってあるわけで、わたしは昔から人間関係の中で自分の言葉や行動のひとつひとつにとてつもなく大きな「責任」めいた何かを感じて疲れるときがある。

しかし自分を承認していないアイドルは別だ。わたしがSNSやnoteでどれだけ言葉を尽くしてもそれが本人の目に映ることはないだろうし、コンサートで目が合ったとしても他のイベントに足繁く通わないときっと忘れ去られていく。しかしそれが自分が今まで他者とのコミュニケーションの中で疲弊する理由となっていた「責任」とまったくかけ離れた次元にいて、そしてこのアイドル/ファンという決して揺らぐことのない関係性の中で行われている。これまで他者とのコミュニケーションの中で発生してきた「責任」なく他者を愛したり、夢中になれる。これがわたしにとって「自分を承認しない推しに惜しみない承認を与えることの動機・魅力」なのだろうと思う。


というわけで長々と書いてしまいましたがいかがでしたでしょうか。おそらく論文マロ主から頂かなければ一生考えることもないテーマだと思ったのですが楽しかったです。最後の方とか雑だしこんな超個人的で稚拙な意見でも何かの参考になればうれしいです〜