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祈る

※当記事はメンタルヘルス、鬱症状について記述しているのでご了承の上ご覧ください


注文したコンサートの団扇はそのうち届くが、しかし手元に来たところでどうしよう。CDについてくるシリアルは友達にあげればいい。トレカはメルカリで売ったら総額いくらになるんだろう。そうやってわたしはオタクであることをやめようとしていた。自分を強く殴るように-顔が腫れ上がり、あざがたくさんできるほど暴力的に。しかし醜悪なあざができても、泥水のようなどす黒い血が吹き出しても、何もかもすべて、本当にすべて、ぶざまな徒労に終わることはわかっている。これまで何度もそうやって愚かな失敗を繰り返してきたから。
インスタグラムを開くとK-POPアイドルたちの輝かしい写真が並んでいる。お願いだからもう誰もわたしの人生に入ってこないで。そう思いながら画面を上にスワイプすると涙が止まらなくなった。さっき終わった友達との通話で泣かなかったのが奇跡みたいに思える。ここに至るまで何かあったわけでもない。だけど何もなかったわけじゃない。

特にここ数年、理由もないのに心がばらばらになりそうな希死念慮やネガティブな気持ちの昂ぶりがあまりにも頻繁にやってきていた。なんとなく周期を測ってみたら生理に合わせるようにしてメンタル面が急降下していて調べてみるとこれはPMDDというPMSの精神症状が強く出るバージョンらしい。
とにかくメンタル面があまりにもずたぼろなのでカウンセリングに行ってみると、PMDDが原因で双極性の躁鬱の状態になっていると言われてしまった。たしかに気持ちの昂りと落ちる時の落差が平常時より開いていてそれがコントロールできず、わたしはずっとずっと壊れて暴走する車に無理やり乗らされているような思いで過ごしていた。

鬱の周期がやってくるとわたしはなぜかきまってオタクをやめようとする。冒頭とこれから引用するのはその時に書いた日記の一部である。

ブレーキが壊れ、猛スピードでひた走り、最後は烈しく燃えて骨組みだけになる自動車。アイドルを推していると自分がそんな自動車に乗ってしまい、降りられずに炎に焼かれている気分になった。本来なら愛は善きもので、それはアイドル/ファン間においてもそうであるはずだった。しかしわたしのアイドルに向ける愛は自分自身を失わせ、自分自身への憎悪を加速させ、自分自身をどこまでも弱らせるものでしかなかった。最初は純粋に好きだったのに、いつしかコントロールができず、内側から蝕まれて破滅していく、そんな気がした。

6月の半ば、ちょうど鬱の周期のときだった。いま思うと本当にささやかな出来事が引き金となり、躁状態になった勢いのまま自死をしようとした。結局のところ未遂の未遂くらいの感じで終わり、何か騒ぎを起こしたわけでもなく、誰に知られることもなかった。静かに流れていくようにすべては過ぎ去ったが、でもそのときは本気だった。遺書も書き、友達の分の京セラ公演のチケットを配達してほしい旨の手紙や韓国に住んでいる友達に送る日本アルバムの手配方法を書いた指示書をiPhoneのメモ機能で作成・印刷までした。それくらい本気だったので、失敗したあとはできるだけ気持ちを平坦に保つ努力をしながらも、どこかであのとき死にぞこなったような思いで生活をしていた。


7月1日の夜、京セラのステージで命を削るような烈しさで踊る5人を見ていたら、予期していなかった何かが突然目の前に落ちてきたようにふっと「生きててよかった」と思った。

公演の2週間くらい前にわたしは死ぬことを選んで、でもできなくて、しかしその失敗を経てきちんと生きようとか、命を大事にしようみたいな気持ちにはまったくなれなかった。ふたたび躁状態になったらどうしようという恐怖感、そしてPMDDなのであれば月に一回こんな気持ちになり続けるなんてという絶望感に襲われ、何度も何度も何度も繰り返すならあのとき死んでおけばよかったとまで思っていた。

TXTのステージを見ていたら、そういった恐怖や絶望感、そして自分が自分として生きることの強烈な痛みを経たうえでこうして彼らに会うことができている事実に震えるような感動を覚えた。わたしがこれまで感じてきたありとあらゆる感情の中で、もっともむきだしの、純度の高い思いのような気がした。それはあのとき一瞬なりにも死を身体的に感じられたことによってかえって自分が「生きている」状態が鮮明になったからかもしれない。
わたしもステージ上で歌って踊っている5人も、みんな今をすごくすごく、生きてるんだと思った。普段はアイドルのコンサートを見て感動しても涙を流すことはほとんどないのに、なんだかこのときばかりは涙が滲んだ。わたしはTXTと同じ場にいて、同じ空気を吸って、確かに彼らと一緒に生きていた。

京セラの数日後、メンタルクリニックに行って躁鬱の高低差を抑えるような作用を持つ薬をもらったが、あまり変わらない気がする。骨折や発熱みたいにわかりやすく元の状態に戻るような症状でもないし、これからもきっと自分を殴るようにしてオタクであることを無理やりやめようとするのだろう。それでもあのとき京セラでTXTが感じさせてくれた「生きててよかった」の気持ちはきっとほんものだし、そんなふうに感じられたことは、自分がぼろぼろのままで生きることへの肯定にささやかながらも繋がったような気がした。
 あの日の5人はこのまま消え入りそうな儚さと同時に絶対に消えない光を放っているみたいで、美しかった。彼らがあの日のステージに立ったこと、そして死にぞこなった自分が彼らを見て「生きててよかった」と思えたことを、永遠に忘れたくないなと思う。わたしは永遠なんてまったく信じないけどそれでもずっとずっと忘れたくないと、祈るような気持ちで思う。