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乳がんでこの世から旅だつということを知った日

4月18日は義姉の命日。
3年前の桜吹雪が舞う朝に旅立っていった事を覚えています。

この日は2度の乳がんに罹患した私が、乳がんでこの世から旅立つという事を目の当たりにした日でした。 

まずはじめにお断りしておきますが、10年ほど前くらいの事から振り返えっておりますので、時系列があやふやになっている箇所もございますが何卒ご容赦くださいませ。


義姉は自分の生前の行いに後悔の念を抱いており、せめて死んでからでも人の役に立ちたい、残された人達に少しでも迷惑がかからないようにしたいとの想いがあったようで『献体』を希望しておりました。

そして葬儀後その遺志どおり隣県にある医科大学へ搬送されていきました。


義姉は私が始めて乳がんを告知された2013年のほぼ同時期にStⅣの乳がんを告知されていました。
いきなりStⅣの乳がんの告知をされたのは、背骨に転移し激痛で歩く事すら出来なくなってからやっと病院を受診したからでした。
しこりは皮膚を突き破って花咲き乳がんとなっていました。


義姉と私は違う病院でがん治療をしていた為、私は1度目の手術をして退院したその足で義姉のお見舞いに行きました。
その時に
私「何故そこまで放置していたの?」
姉「どうでも良くなっていたから‥」
私「サブタイプは?私はルミナールAだったよ」
姉「興味ないから聞いてない」と微笑みながら言っていました。

私は死にたくないとの思いでいっぱいでした。そんな風に答える義姉の姿と言葉から切なさを感じ「私も治療を頑張るから、お義姉ちゃんも一緒に治療を頑張ろうね」と声をかけました。

後に緩和ケアの先生に聞いた話しですが、義姉のようにStⅣになるまで乳がんを放置してから病院に来るケースは決して珍しくないとの話しに驚いた事を覚えています。


義姉は手術出来る状態ではなかったため、放射線治療や抗がん剤治療を入退院を繰り返しながらしていました。
姉「あとどれくらい生きられるのか?聞いたらこれくらいだって」と2本指を立てて見せてくれました。
私「年?」
義姉はうなづいてくれました。

義姉のサーポートは同居していたパートナーがしてくれていましたが、私は同じ乳がんに罹患した者として出来るだけ気持ちに寄り添いたいと思っていました。


そうこうしているうちに私は2度目の乳がんに罹患しました。1度目の乳がんに罹患した2年後の2015年の事でした。2度目の乳がんはトリプルネガティブだったので死への恐怖は更に増して行きました。


義姉は始めは一般病棟で治療していましたが、後に緩和ケア病棟へ移って行きました。
緩和ケア病棟に移ってからは、呼び出しの電話が来るようになりました。

先生は「かなり容体が悪いので2週間くらいしかもたないかもしれません」と険しい顔つきで話されていました。
息も絶え絶えな義姉の様子をみているとそうなんだ‥と思わずにいられませんでした。
私「何か食べたいは物ある?」
姉「何もいらない」「アイス」
などと返事が返ってくるだけで、良くてアイスを一口か二口食べる状態でした。

少しでも励ましになればとの思いからなるべくお見舞いへ通いました。「フルーツが食べたい」などと言うようになったので義姉が食べたい物を持って行きました。
すると日に日に回復し病院側から「そろそろ3ヶ月になるから他の病院へ転院する事を考えてください」との話しがありました。

緩和ケア病棟ってどれだけ入院していてもいいのかと思っていたのですが「普通の病院と同じですよ。一旦家に帰ってからまた入院ってかたちでもいいですよ」との話しから、一旦家に帰り暫く病院から離れて生活をしていました。

しかしいよいよ体調が悪くなり、また緩和ケア病棟への入院になりました。そこには癌があちこちに転移し痛み苦しむ義姉の姿がありました。
「辛いね」「苦しいね」と声をかけながら手足をさする事くらいしか出来ませんでした。



そしてその日はやって来ました。
まだ日が登らないに暗い時間帯に不吉な呼び出しの電話が鳴りました。
病院に駆けつけると「もういい‥」「もういい‥」と想像を絶する痛みと苦しみに襲われている義姉の姿がありました。

暫く声をかけ様子を見守っていましたが最期の時は訪れました。
深くゆっくりとした息を3回したあと、旅立っていきました‥‥

私は今まで何人かの人を見送って来ましたが、人が息を引き取っていく瞬間に立ち会ったのは始めてだったので今でも鮮明に覚えています。


悲しみが込み上げ涙が溢れてくるのと同時に、お義姉ちゃんは痛み苦しみから解放されたんだと思わずにいられませんでした。


先生から「◯◯さん本当に良く頑張りましたね」「◯◯さんみたいにいいい意味で期待を裏切ってこんなに生きられた方は始めてです」「緩和ケア病棟入院日数が1番ですよ」などと言って頂きました。


何故、余命宣告を3回され緩和ケア病棟入院日数が1番になるほど生きる事が出来たんだろう?といろいろ考えてみましが、私が知る限りの義姉は体に気をつけるとか、体にいい物を食べるとかはしていませんでした。

好き嫌いが多かったので、むしろ自分が好きな物を食べていたように見えました。
好きな物を食べ好きな事をしていた、そんな印象でした。

果たしてそれがいい事なのかは分かりませんが、もし自分が余命宣告をされたら?という事を何度も考えさせられました。私はきっと自分の好きな人達と沢山話しをして、自分のやりたい事をするかもしれない、そう想いました。


2度乳がんに罹患し、死への恐怖と闘っていた私にとって、義姉が緩和ケア病棟で闘病している姿から多くの事を学びました。

その姿から『私が癌でこの世を去る時が来たらこの病院で最期を迎えたい』そう思いました。

それだけ緩和ケアの先生方や看護師さん達が24時間体制で痛み苦しみに寄り添って下さる姿が素晴らしいと感じたからでした。 
感謝の気持ちしかありません。


最後に
私の拙い文章を読んでくださった皆さん、お付き合い頂きありがとうございました。
私の目で見て感じた事ではありますが、何かのお役に立てればと思い義姉との事を回想しここにしたためさせて頂きました。

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