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上海留学日記

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30年ほど前の上海での留学生活について書いています。 現在の留学生活とは大きく違うと思いますが、よろしければ、お読み下さい。
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上海留学日記 其の三十一

上海留学日記 其の三十一

春になり、上海の生活にも慣れてきて、体調も良くなったところで、はたと「このまま上海にいていいのか?」という思いが強くなってきた。
当時の上海では、まだまだ街は上海語であふれ、テレビやラジオでもアナウンサー以外はほとんど訛りの強い方言だったり、その地方の言葉だったりを話している人ばかりであった。寮のおばちゃんたちも普通話は単語だけしか話せない。
つまり、普通話を学習する環境としてはあまりよろしくない

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上海留学日記 其の三十

上海留学日記 其の三十

私がいた当時の上海は光化学スモッグと砂埃などでとにかく大気汚染がひどかった。外出すると髪の毛はバリバリになるし、バスのつり革やにぎり棒もすごく埃で汚れていた。潔癖な人はコロナ禍の時のように手袋をしてつかまっていた。
そこで、大方の留学生が喉からひどい風邪の洗礼を受けるのだった。
そして、薬局に行くとまず薦められるのが『板藍根』という薬。
今では日本でも漢方薬として売られているようだが、本家本元のは

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上海留学日記 其の二十九

上海留学日記 其の二十九

二月になり、他の棟にいた団体さんの留学生たちはみんな帰国してしまった。
私はかねてより、南向きの部屋が空いたら移りたいと生活担当の先生にお願いしていた。今の部屋は北向きの一階で浴室の隣、湿気もすごく何より昼でも薄暗く寒い。霊がいると噂されるのもうなづける感じの部屋だ。
暖房設備が整備されていない当時の上海においては、部屋が南向きかどうかは死活問題だった。
で、空きが出た棟の南向きの部屋、しかも二階

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上海留学日記 其の二十八

上海留学日記 其の二十八

1995/1/17

朝、テレビを点けるとニュースで神戸が燃えている映像が映し出されていた。⁈ ただ事ではない。映像は崩れた高速道路に切り替わる。
地震だ!神戸で大地震が起こったと報道している。詳しいことはニュースではわからない。
大阪の実家にいる姉に国際電話をかける。繋がらない。
寮にいる日本人たちはみんな自宅や知り合いに電話をかけようと試みる。
かからない。
オペレーターに申し込む方式の寮の国

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上海留学日記 其の二十七 下

上海留学日記 其の二十七 下

ミャンマー半日観光の朝、ヒガシくんも何とか復活し、7:45頃に青年旅行社前に集合した。もうすでに中国人の団体客10名ぐらいが集まっていた。
8:00にバスは出発した。
中国の方々は、日本人がこんなところまで来るのは珍しいと、色々と話しかけてくる。私の中国語はまだまだなので、ヒガシくんに通訳してもらいながら話す。
彼らによると中国では「どこから来たの?」とか「どこの出身?」と聞かれるのとともに「どこ

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上海留学日記 其の二十七 中

上海留学日記 其の二十七 中

翌日は予定通り、西双版納へ飛行機で向かった。

書き忘れていたが、上海から昆明までの飛行機は、外国人だからファーストクラスしか取れないと言われ、少し高めの運賃を支払わされた。ファーストクラスとは名ばかりで、ただ単に一番前の席で、食事のカトラリーが金属製なだけだった。ご大層にテーブルに布ナプキンを敷いてはくれたが。

小型のプロペラ機で、無事着陸した時には機内中で拍手が巻き起こった。
揺れが激しかっ

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上海留学日記 其の二十七 上

上海留学日記 其の二十七 上

1994年12月某日

9月から三カ月コースで来ていた日本人留学生たちが帰って行き、寮は閑散としていた。
上海の冬は気温は大阪と同じぐらいなのだが、当時は暖房設備が整っていなかったので、とにかく寒い。レストランの中でも上着を着たまま食事をするぐらいだ。
あまりの寒さに耐えかねて、ヒガシくんが亜熱帯の村、西双版納(雲南省の辺境の村でミャンマーやベトナム、ラオスと隣接)へ旅行に行こうと言う。

ヒガシ

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上海留学日記 其の二十六

上海留学日記 其の二十六

さて、ここまでは1994年当時に書いた備忘録通りに書き進めてきましたが、授業時間も含め日中はほとんどサダコと過ごし、夜は相変わらず寮母さんと化していたので、思うように日記を書く時間が取れなくなってしまいました。
ここからは記憶を頼りに書いていこうと思います。
時系列がおかしい点も出てくるかとは思いますが、よかったらおつきあい下さい。

1994年11月某日

放課後、サダコと街へ買物に出かけた。彼

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上海留学日記 其の二十五

上海留学日記 其の二十五

1994/11/21 曇

入門班に仲間が増えた。
韓国人の女性。中国語は全くで、英語も片言なので、カンさんに間に入ってもらって、色々話をする。
出身は釜山で、年齢は私より三つ下。ソウルで油絵画家をしながら、姉の経営する画材店を手伝っているそうだ。
名前は『朴貞子』で、日本語読みではどうなるのか?と聞くので、『ボクサダコ』と答えると、大笑いして『サダコ』と呼んでと言う。『サダコ』…髪長いし…(-_

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上海留学日記 其の二十四

上海留学日記 其の二十四

1994/11/20 曇

午後から就職説明会。
朝から南京路へ行き、昨日買ったブラウスのサイズが小さかったので、替えてもらいに行く。店長と思われる男性店員が出てきて快く替えてくれる。
隣の新しいファッションビル、マンハッタン・プラザに入ってみる。
カルチェなどのブランド・ショップ、ベネトンやワーナーブラザーズのショップなど海外ブランドのショップが大半を占めている。
そのまた隣にある純国産品ばかり

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上海留学日記 其の二十三

上海留学日記 其の二十三

1994/11/19 曇時々晴 少し雨

今日は朝から図書館と美術館に行く予定だ。
久しぶりに雨が降っていないので、洗濯機が混んでいて、寮のおばちゃんが他の棟で順番を取って放り込んでおいてくれた。脱水が終わるまで、カンさんたちの部屋でおしゃべり。誰か家庭教師を探してもらえるように頼んでおいた。

南京路に着いたらもう13:00前だった。
図書館に行く途中で、羊皮のキャップ68元を55元で買う。

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上海留学日記 其の二十二

上海留学日記 其の二十二

1994/11/16 雨

ずっとお休みしていたオオタさんが復活。肺水腫で入院していたそうだ。
オオタさんは、大阪外大のロシア哲学科卒で、思想がかった話が好きだ。
某宗教団体の青年部長を務めたこともあるらしい。中国語をマスターしたら、奥さまと日本で起業するのだそうだ。実家が滋賀県で、田舎ではまだまだ中国人に対する偏見が強く、両親はもちろん親戚中から結婚を反対されたそうだ。なので、絶対起業を成功させ

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上海留学日記 其の二十一

上海留学日記 其の二十一

1994/11/13 雨

朝から頭痛がする、雨のせいだろうか。

昨日バスから、新しくできた建物にアドバルーンが上がっていたのが見えたので、デパートか何かの開店かと思って行ってみる。
実は見本市(インテックスみたいな)の会場で、招待状がないと入れないらしい。入り口で入りたそうにウロウロしていたら、警備のおじさんが入れてくれた。
自転車のブースがたくさんあって、パンフレットをいただく。
他に雑貨の

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上海留学日記 其の二十

上海留学日記 其の二十

1994/11/12 晴

昨夜ホンダくんが中国国内の旅(二胡の先生の故郷に行っていた)から帰ってきたので、土産話を聞く飲み会となった。その流れでなぜかビリヤードをしに行った。
今朝はその二日酔いのせいで早く目が覚めたので、メガネを買いに出かけた。
伊勢丹で高屈折レンズのメガネを作ったら、1,600元を1,500元にまけてくれた。デパートで値下げしてくれるとは!
出来上がるまで2時間かかる(当時日

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