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【小説】ひとつではない世界で(後)

「みんな捨てて、逃げっちまえばいいんだよ。そこから」
「逃げる?」
「そう、逃げるんだ。自分を守るために。大体、アンタ、今勤めている美容室って、どうやって入ったんだい?」
「専門学校の募集案内を見てよ。」
「それまでに、その店は知ってた?」
「知らないわ。」
「ほら見た事か。じゃあ、元々その店には縁がなかったんだよ。別に何でもよかったんだ。」
「何でもよくはないわ。だって、私の夢を叶えるために…」
「そんなの、どこの店でもよかったんだろう?その店じゃなくても。」
「確かに、それはそうだけど…」
「よくさあ、縁があったとか、なかったとか言うだろう?あの縁は曲者でね。縁には良い縁と、悪い縁があるんだ。アンタは、これまで悪い縁に囲まれてただけなんだよ。」
「悪い縁?そんな事はないわ。みんな、私が一人前になるように、面倒見てくれたし、優しいし。」
「でも、騙したんだろう?」
「それは、そうだけど…」
「アンタのその手をボロボロにしてまで、いなきゃならないのかい?痛むんだろう?」
「でも、これを乗り越えないと…」
「医者が言ったんだろう。今の仕事を辞めなきゃ、その手は治らないって。」
「そう。」
「自分の身体をボロボロにしてまで、そんなのに付き合う必要があるのかい?」
「でも、私の夢だから…」
「アンタは失敗したんだよ!」
「えっ?」
「自分の性じゃないけどね。手が荒れるのは予想外だったかもしれない。でもね、人間の身体は正直なんだ。合わない事をすると、途端に無理がいく。身体が悲鳴を上げてるのに、それを軽く考えたのが、そもそもの間違いなんだよ。」
「でも、手はいつか治るかもって、思ったから。」
「ほら、現実に目を逸らしてる。自分の掌をよく見てごらん。とてもじゃないが、20代の若い女の子の手じゃないよ。」
私は、手を見た。皮膚が剥がれ、赤く腫れている手。
「いいかい?自分の事は、一番自分が可愛がらなきゃいけないんだ。他の人は救ってはくれない。自分は自分で救わなきゃならないんだよ。」
また、涙が出た。
「じゃあ、私、どうすればいいの?今、私の側にいる人が、私の東京の全てなのに…」
「狭いね、アンタの世界は。」
「狭い?」
「この公園を見てごらん。こんなに朝早いのに、もうたくさんの人がいる。」
頷いた。
「走ったり、散歩したり、みんな、思い思いに生きている。新宿駅へ行ってごらん。もっとたくさんの人がいるから。」
「そんなの知ってるわ。でも、そこにいる人の事を私は知らない。」
「まだ、知らないだけだよ。知る可能性はある。一日は、何時間だい?」
「24時間よ。」
「そう、24時間だ。これはどんな人でも同じだ。不公平はない。」
「そうね。」
「今、この時間に色んな人が色んな事をしている。例えば、起きてシャワーを浴びたり、そこにいる人たちのようにジョギングをしたり、花に水をやったり、愛する子供をハグしたり、色んな人が色んな事をやっている。世界中だと大変だよ。今ごろ大半のヨーロッパの人は寝ている時間だ。アメリカも東海岸でも、もう寝ているだろう。東南アジアは夜明け前で、そろそろ人々が動き出す前だろう。明けの明星に願いを唱える人、川に祈りを捧げる人、家族のために働きに出掛ける人、色んな人がいるんだ。」
「それって、何が言いたいの?」
「アンタがここでクヨクヨしている時間に、色んな人が色んな事を考えて、色んな人の事を思って、色んな事をやっていると言いたいのさ。そして、その色んな人のうちで、これからアンタと仲良くなったり、励ましてくれたり、愛してくれる人が、必ず現れる。」
「そうなの?」
「そうさ。」
「絶対?」
「絶対に。」
「…」
「つまりは、アンタが今、知ってる世の中は、酷く狭いという事さ。狭いところで自分で自分を息苦しくさせている。何で、そんなに狭いところにいたがるんだい?世界は広いよ。広くて、息苦しさもない。」
「世界が広いのは分かるけど、じゃあ、私はどうすればいいのかが分からない。どこに行って、何をやればいいのか?大体、広いところは苦手なの。迷子になりそうで。」
「迷子?それは、行く先が決まっている人が言う事だよ。だから、アンタは迷子にならない。何しろ、これから行先を決めていかなきゃならない立場だからね。」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「簡単さ。やる事は二つある。」
「二つだけ?」
「ああ、二つだけだよ。一番目は、まず失敗を認める事だ。人間は何度でも失敗する。その失敗が、お金がかかってたり、つまらないプライドがかかってたりすると、人は途端に失敗を認めたくなるものさ。でもね、さっきも言ったように、人間は絶えず失敗するんだ。だから、失敗は失敗と、素直に認めればいい。認めて、次は失敗しないようにしようって、自分で決めて、新しいステージに進めばいいんだ。」
 
失敗を認める。
これだけ、失敗、失敗と言われると、確かに私が美容師を目指した事は、失敗なように思えてきた。
 
「で、二番目は?」
「新しいステージに進む時、アンタは世界の広さに驚くだろう。怯むかもしれない。広さを恐れない事さ。広いのは当たり前なんだよ。だって、世界は一つじゃないからね。」
「世界は一つじゃない?じゃあ、いくつあるの?」
「それは分からない。多分、いっぱいある。」
「いっぱい…」
「今日は、何年の何月何日だい?」
「2024年5月9日よ。」
「アンタ、エチオピア暦って、知ってるかい?」
「知らない。」
「アタシはねえ、エチオピア人の父と、日本人の母を持つハーフなんだ。でも、私はいっぺんもエチオピアには行った事がないんだけどね。言葉もジャパニーズ・オンリーだし。」
「そうなんだ。で、エチオピアの暦は、何?」
「ああ、エチオピア暦ではねえ。今日は2024年でもないし、5月でもない。もちろん9日でもない。」
「そうなの?」
「そうなんだよ。私もお父さんがこっちにいた頃に、ああ、お父さんはねえ、私が10歳の時に、国に帰っちゃったんだ。だから、それからはお母さんと二人で東京に住んでた。ああ、脱線したねえ。お父さんのカレンダーでは、西暦とは違って、多分5、6年は、若かったかなあ?ああ、年が5、6年も違ってたという意味。つまり、エチオピアでは、今日は2019年ぐらいになるのかな?」
「そうなの?」
「そうなんだよ。私も詳しくは知らないんだけどね。で、月は、エチオピアでは13月まであるんだ。だからオートマティックに日も違ってくる。」
「不思議だね。」
「時間も違うんだよ。今、何時?」
「もうすぐ7時ね。」
「それは、エチオピアでは1時になるんだ。あの国では、朝6時ぐらいが0時と言ってるらしいからねえ。」
「じゃあ、エチオピアの人と待ち合わせなんてできないね。」
「そうなるだろう。知らなかったかい、エチオピア暦の事。」
「全く。」
「これで分かったかい?アンタが信じて疑わなかった事が一つ、簡単に崩れ去っていった事を。」
「カレンダーが違う国がある事は、初めて知ったわ。後、時間も。」
「そう、よかったねえ。これで分かっただろう、世界は一つじゃないって。」
「世界が一つじゃない事が分かってきた。でも、それが私に、どう関係するの?私外国なんて、ハワイしか行った事ないし。」
「何も、海外で働けとかと言ってる訳じゃないよ。さっきも言ったようにね、時間は公平なんだ。だから、アンタが今、こうしてる時にも、色んな人が色んな事をやっている。それは分かったかい?」
「それは分かった。」
「アンタが手の痛みを耐えながら仕事をしている時に、OLはパソコンに向かってたり、主婦は朝のワイドショー見てたり、ビジネスマンは大事なプレゼンの準備をしてたりするんだ。農家ではお茶の時間かもしれないし、水族館では、水槽の掃除をしてるかもしれない。レストランでは、ランチの仕込みが大変な時間かもしれない。ギタリストはいいフレーズを思いつくかもしれないし、ゲーマーは新記録を出しているかもしれない。ある国では母親が娘を寝かしつける時間だし、少女が水を汲みに行く時間かもしれない。内戦が激化している地域では、爆弾を落とされて、家を壊されたり、死んでしまったり、大怪我をしているかもしれない。テロリストは、実行計画を相談しているかもしれないし、相手の国ではそのテロリストのせん滅作戦の検討しているかもしれない。みんな同じ時間だ。何しろ時間は公平だからねえ。分かる?」
「分かるけど、爆弾を落とされたり、テロリストに会うのは嫌だわ。」
「それはそうね。つまり、アンタがつまらない狭い場所で、一人で苦しんだり、クヨクヨしたり、不安になっている時にも、色んなところで色んな人が色んな事をしているのよ。」
「だから?」
「だから、辛いなら、その狭い場所を出なさい。そこからお逃げなさいと、言いたいの。」
「だから、逃げるなのね。」
「そう。」
「逃げて、どうするの?」
「家に帰るのよ。アンタの両親がいる家に。そして、建て直すの、一から。」
「建て直す?どうやって?」
「まずは、身体を健康にする。手を治す。」
「それはそうね。それから?」
「身体が健康になったら、心の健康も取り戻すの。」
「クヨクヨしないように?」
「そう、そして、新しい道を捜すのよ。」
「新しい道が見つからなかったら?」
「それは自分で頑張って見つけるしかないわ。自分を守るために。」
「じゃあ、新しい道が見つかったとして、また、人に嘘をつかれたら?」
「その時は、手紙を書くと良いわ。」
 
「人を騙すヤツは、最低だ!」
「人を騙すヤツは、最低だ!」
 
私たちは、同時に言った。
 
何だか、心が軽くなった。
 
軽くなったら、眠くなってきた。
故郷の家に帰って、ゆっくり寝よう。
そう決めた!
 
私はノラの目を見た。
ノラは、それでいいんだよと、目で言った。
吸い込まれそうな優しい瞳。
私は、ノラに笑顔で頷いた。
 
 

 
 
 

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