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【短編小説】真心


俺は、ツイてない。
 
生まれてからずっと、俺にはツイてた時がない。
 
不遇な人生。
 
何で、こうなってしまったんだろう?
 
一日に何十回も、考えてしまう。
 
神様は不公平だ。
 
俺は、ずっとこのままの人生を歩いていくしかないのか?
 
そうだとすれば、俺にはもう絶望しかない。
 
ずっと、そう思って生きてきた。
 
 

俺は中学を出る頃、家出した。もう12年前の事だ。
 
親父はろくでなしだった。
お袋や俺に、酔って手を挙げた。
小学生の頃、俺はいつも顔のどこかを腫らしていた。
 
お袋に「逃げよう」と、何度も言った。
その度にお袋は「お義母さんから預かったこの店を守らないといけない。」そう言って、
頑として聞き入れなかった。
 
ある夜、親父が家にある全部の金を持って出ていこうとした。
その中には、仕入れをするための金も入っていた。
お袋は親父の足に絡みつき、何とかそれだけは持ち出させないようにと頑張った。
しかし、親父はお袋を振り払い、蹴飛ばした。
お袋は後ろの三和土にまで転がり、頭を強く打った。
 
親父は出ていった。
お袋は入院した。
お袋を病院に入れてから、俺は家を出た。それからはあの家に帰らなかった。それが12年前の事だ。
 

今から2年前の8月。
俺は台所も風呂もトイレもない3畳一間の部屋で暮らしていた。
すぐ横をJRが通り、絶えず振動している部屋。
 
俺は二日前に腹を壊した。
身体が動かなくなり、部屋の煎餅布団に横たわったまま、じっとしていた。
熱があるのだろう。意識も遠い。
起きているのか寝ているのか、分からない。
 
廊下の木の床に不釣り合いなヒールの足音が聞こえた。
そして、その足音は俺の部屋の前で止まった。
 
薄く頼りないベニヤ板のドアをノックするが、とてもノックの音には聞こえない。
 
俺を呼んでいるのか?俺を連れに来たのか?
遠い意識の中で、俺はてっきり死神が来たのだと思い込んだ。女の死神が。
 
ノックの音は続く。
 
俺は、痛む身体のままで起き上がり、ドアの前に立つ。
 
「誰?」警戒心からか、俺は尖った声で訊いた。
「ワカミヤタイジュさんですか?」俺の尖った声には似合わない優しい声がした。肩の緊張感が解けた。
「ダイキだけど…大樹と書いて、ダイキ。」
「そうですか。私、三上法律事務所から来ました。弁護士の沢崎奈央子と言います。」
「弁護士?弁護士の先生が、俺に何の用だい?」
「お母さまの遺言状の事で、お話があります。開けてもらえませんか?」
お袋の…遺言状…
俺は何とか力を絞り出し、引き戸を開けた。そしてそのまま気を失った。
 

涼しい。
 
目が覚めたら、病室だった。
清潔な匂いのベッドに俺は横たわっていた。
 
俺の意識が戻った事を看護士が気付き、すぐに医者が来て診察をし、色々と説明してくれた。
俺はウィルス性腸炎だった。
それに、これまでの不摂生がもたらした健康不良が重なり、死んでもおかしくない状況だったようだ。色々の治療を施したが、俺は丸二日も意識不明だったらしい。
 
あの時、沢崎奈央子が救急車を呼び、ここへ運んでくれたのだ。奈央子が来てくれてなければ、俺はそのまま死んでいたのかもしれない。
と言っても、部屋の外で名前を呼んでくれたあの優しい声以外、俺は彼女の事を何も知らない。ドアを開け、姿を見る前に俺は気を失ってしまったからだ。分かっているのは沢崎奈央子という名前と優しい声、それだけだ。
 
看護士が奈央子が昨晩晩仕事帰りに見舞いに来ていた事を教えてくれた。
彼女は持参した花瓶に花を飾ってくれたそうだ。
 
確かに、俺のサイドテーブルには瑠璃茉莉が飾ってあった。
瑠璃茉莉…花言葉は確か、同情?俺は同情されているのか?
 
夜になった。病棟内では夕食の食べ物の匂いが残っており、各病室には見舞いに来た家族等とのひっそりとした会話が漏れ聞こえてくる時間だ。
 
不意に沢崎奈央子が俺の病室に来た。
静かにドアを開けて、忍ぶような足取りで…
どうしていいか分からず、俺は咄嗟に目を瞑った。何故だか分からないが、寝ているふりをした。
彼女はサイドテーブルに近づいたかと思うと、すぐに離れ、ドアの外へと出て行った。すぐに戻ってくると、サイドテーブルに静かに花瓶を置いたような気配がした。
カサカサと紙をまとめる音がして、彼女は席を立った。
このままでは、彼女は帰ってしまう…
いいのか、それで?
 
「うっ、うーん…」今起きたふりをした。
「あら、若宮さん、起きました?」
声のする方を見た。思った通りの優しい沢崎奈央子の姿が見えた。
本当に思った通りだった。何故だか俺は泣いた。
 
 
「何故、昨日も今日も花を飾ってくれたんですか?」
「若宮さん、ご実家がお花屋さんでしょう。花がいつもあると、嬉しいんじゃないかと思って。」
彼女はそう言った。
俺は、口ごもりながら「嬉しいっす。ありがとうごじゃいましゅ。」と言った。サイドテーブルにはブーゲンビリアが咲いていた。
 
 
病床で、彼女からお袋が死んだ話を聞いた。
 
うちの実家は、都心の商店街の真ん中にあるフラワーガーデン・若宮という花屋だ。
店の歴史は古く、昭和初期に遡る。
うちのじいちゃんとばあちゃんが、店を大きくした。
じいちゃんが亡くなった後は、ばあちゃんとお袋で店を切り盛りしていた。
ばあちゃんが亡くなり、お袋が一人で店を経営するようになった頃から、親父が店の仕事をしなくなり、家に帰らなくなった。
そして、親父は出ていき、俺も家を出た。
 
お袋は一人で店を守った。
しかし八か月前、開店の準備をしている時に、お袋は倒れた。心臓発作。即死だったらしい。
 

お袋は生前、いつもデスクに飾る花を買いに来てくれていた沢崎奈央子に、遺言状を託したようだ。
奈央子が勤める三上法律事務所は、うちの店の真向かいのビルにあり、奈央子は、兎角ギスギスしがちなオフィスの中の空気を少しでも明るくするため、オフィスのそこここに花を飾るようにしていたらしい。
そのため、うちの店には、毎日花を買うために訪れており、そこでお袋と懇意になったという事だった。
 
遺言状の中身はシンプルだった。
今、行方不明中の長男大樹に店の権利の一切を譲る、というものだ。
 
これを伝えるために、奈央子は八か月もかけて俺を探してくれたのだ。
 
そして今、俺は病院のベッドで、横に座る奈央子からその一連の話を全部聞いた。
 
「分かりました。」俺は言った。
「で、今後、どう進めればよいのでしょうか?」
「それは、退院なさったら、順次こちらからお知らせいたします。じゃあ、ご了承いただいたという事で。」
「結構です。」
「ああ、良かった。これで肩の荷が降りるわあ。佳恵さんに顔向けできる。」
佳恵とはお袋の事だ。よっぽど仲良くしていたのだろう。
「色々と、ありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ。これからも宜しくお願いします。」奈央子はそう言った。
そして、俺が退院するまでの間、彼女は毎日見舞いに来て、毎日違う花を飾ってくれた。
 

俺は退院した。
その足でボロアパートを引き払い、10年ぶりに実家に帰った。
うちは店舗兼住宅で、1階が店舗になっている。
シャッターの閉まった店。
奈央子から渡された鍵で開けると、そこは生き物が死に絶えた匂いで満ちていた。
店で売るはずだったたくさんの花が、枯れ腐り果てていた。
その様子を見て、俺は誰憚る事無く大声を出して泣いた。そして、お袋に詫びた。
枯れた花が、お袋のように見えて仕方なかった。

 
俺は、それから1週間かけて店と住居を片付けた。 
その他の準備を整えて、2週間後にやっと店を再開する事が出来た。
 
最初は、仕入れに行くだけでも大変だった。
花の目利きもなく、値頃感も分からない。兎に角、分からない事だらけで、失敗の連続だった。
 
しかし、そんな時でも沢崎奈央子は毎日花を買いに来てくれた。
それは、俺にとって何物にも代え難い貴重な時間となった。
 

それから2年が経ち、春が来た。
 
俺は一人で花屋を何とかやっている。近所に贔屓も多く、仕事は順調だ。
沢崎奈央子は、相変わらず毎日花を買いに来てくれる。
彼女が来ると、浮足立つ。フワフワして、夢心地のような気分になる。
 
俺は彼女に恋をしている。
しかし、それは彼女にはずっと伝えられずにいる。
 
自分に自信がない? それはそうだ。
不釣り合い? それもそうだと思う。
何せ、向こうは弁護士先生だぜ。俺とは違う。
 
しかし、俺は決めた。
明日、彼女に思いを伝える事を。
 
翌日。よく晴れた朝に、彼女はやって来た。
 
「おはようございます。」
「いらっしゃい。今日は、お買い上げいただく前に、私からちょっとお話があるんですが。」
「何でしょう?」
「実は、この花を贈りたく。」
「あら、黒いコスモス?珍しい。色もそうだけど、春にコスモスなんて。」
「これはチョコレートコスモスと言って、3月以降はずっと咲いてくる花です。奈央子さんは、コスモスの花言葉、知ってますか?」
「すいません、知りません。」
「真心です。今日は、俺の真心を奈央子さんに贈りたいのです。つっ、つまり…」
「あっ、あの、仕事は続けてもいいかしら?」
「えっ?」
「ここに住んでからも、今の私の仕事は続けてもいいか?と訊いてるの。」
「住む?だって、俺たちまだ付き合ってもないのに?」
「いいの。ここなら、オフィスまで徒歩1分だし。」
「それはそうだけど…」
「事務所の仕事がない日は、私も花屋を手伝えるわ。」
「いや、でも…」
「ずっと一人で寂しかったんでしょう?」
「あっ、ああ…」
「これからは大丈夫。私がいるわ。」
俺の目から大粒の涙が出た。彼女は俺をいつも泣かせる。そして、その涙はいつも嬉し涙だ。
「幸せにしてね。」
 
俺は、誰よりも幸せな男になった。
 
 

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