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僕と彼女

割引あり

白菫

伝えきれないほどのありがとう
伝えきれないほどのごめんなさい
後悔する時には遅く
すぐそこにある
いつもそこにある
そんなふうに思えるものは突然に消えてしまうもの
だから

この時
この瞬間
伝えたい

ありがとう

彼女は囚われている。
彼女自身に。彼女の内側に。彼女の過去に。彼女は彼女が囚われていることを知っている。けれど何に囚われているのかを知らない。彼女の素顔を知る者もいない。彼女自身も知らない。それでも人生を歩めるのだろうか。
彼女は囚われている。
見えない何かに。秘められた想いに。彼女が探しているものはどこにあるのか、どんなものなのか、誰も知らない。彼女も知らない。囚われの彼女は何を求めるのか。彼女は何を見て何を想うのか。彼女は何がしたいのか。おそらく彼女にすら分からない問いなのだろう。来る日も来る日も考え続け、そうしているうちに何年もの月日が過ぎ、彼女は何も分からないまま人生を終えるのだろうか。彼女を救う温かい手も、彼女にかける優しい声も、彼女の人生のうちには現れることはないのだろうか。彼女をそっと抱き締めて、もういいんだよ、頑張ったね、ただそれだけ。彼女を包み込んであげることができる人はもう存在しないのだろうか。彼女を解き放してあげる方法はもうないのだろうか。囚われた彼女はもう抜け出せないのだろうか。彼女は解放されることを許されていないのだろうか。
彼女は囚われている。
なぜなのかは誰も知らない。彼女の世界はただただ光のない真っ暗闇な世界。いつも、いつもその世界には震え上がるほどの獣の鳴き声が響き渡っている。彼女は恐れている、彼女が見ている世界を。彼女が怯えずにすむ世界はもうないのだろうか。彼女は安心して暮らすことも許されていないのだろうか。彼女の苦痛は誰の耳にも届かないのだろうか。彼女の悲鳴は誰の心にも届かないのだろうか。彼女の住む世界は人とは違うのだろうか。何かの隔たりで区切られ、彼女は人と住むことができない。誰も彼女の居場所がわからず、だからといって、彼女を探すことはない。彼女の存在すら知らないかのように。
彼女は囚われている。
彼女自身に。彼女は人と共有しない。彼女の心は彼女だけのものらしい。彼女は自分の気持ちを理解できる人がいないと信じて止まない。彼女は固執し過ぎるあまり、孤独になった。彼女の孤独は彼女の世界を変えていった。彼女の心を変えていった。彼女の寂しさは彼女自身の領域を超えてしまった。彼女はどうすることもできない。人からみればただただ単純で容易に解決できる。彼女は人ができることができない。それは彼女が劣っているからなのだろうか。彼女が人よりも小さな人間であるから、より深く傷つき、より深刻に考え、周りからの気にするなという言葉に折れるのだろうか。全て彼女の責任なのだろうか。全て彼女が劣っているせいなのだろうか。彼女自身の問題なのだろうか。彼女が全て悪いのだろうか。
彼女は囚われている。
囚われのきみへ

1 彼女
2 ある青年
3 僕
4 小さな手
5 二人
6 いつか
7 温かな涙
8 夢


1 彼女


 煌く星。淡く光る月。僕らを包み込む夜の闇。だけれど僕らの間には光があるように感じた。彼女が僕を見上げた。目に涙を浮かべて。僕が彼女の方へ手を伸ばすと彼女は僕の胸に顔をうずめた。

「あなたの、あなたのそばに、いてもいいですか」

彼女は小さな声でそう言った。

 「もちろん。」

僕がそう言うと、彼女は僕を見上げて嬉しそうに微笑んだ。

静かな夜に雪が舞い始めた。


 毎日立ち寄る喫茶店に彼女はいた。

落ち着いた雰囲気の喫茶店で、一人の時間を満喫するには、最適の場所だと思う。紅茶をすすりながら、本を読んだり、仕事をしたり、ゆっくりと寛げる。喫茶店のオーナーの浅葱賢さんとは顔見知りになった。僕はその日も喫茶店の一番奥の席で店内の様子を見ながら紅茶を楽しんでいた。カランと音がしてお客さんが入ってくる。美しい横顔のその人は、トレンチコートを左腕に掛け、ドアを優雅にくぐり抜けていく。彼女はそのまま店内を見回すこともなく、カウンター席に向かった。艶のある長い黒髪に指を通しながら、賢さんに珈琲を注文した彼女は、白いシャツにタイトパンツ、ピンヒールを履いていた。PCを開いたまま、画面から顔を上げてただひたすら見惚れている僕に気がつくと、彼女は僕の方をちらっと見て、その薄い唇をさらに薄くして微笑んだ。優しく美しい笑顔だったが、僕は少し違和感を覚えた。彼女の微笑みはなぜか悲しそうに見えた。彼女は賢さんから出来立ての珈琲を受け取り、まだ湯気の上がっているカップにそっと唇を添えて、珈琲を少しだけ口に含んだ。彼女の細い喉が微かに上下し、まだ温かい珈琲が通っていった。しばらくの間、彼女は両手でカップを大事そうに持ち、カップの中のまだ半分以上残っている珈琲を一心に見つめていた。カップ越しに見える景色が湯気で少し霞み、揺れるカップの中で渦巻く珈琲の苦い香りが店いっぱいに広がった。

「凄く美味しいです。」

彼女は顔を上げることなく、カップの中を見つめたまま、唐突にそう言った。

「ありがとうございます。」

誰に向けたわけでもなく放たれたその言葉に、珈琲でシミになった台を拭いていた賢さんが、彼女の方に目を向けることもなく、ただ合いの手を入れるように答えた。

僕には驚きだった。突然の彼女の言葉にも、賢さんは驚いていない。ただいつもそうしているように、淡々と、何も見えていないかのように答えている。僕は、まだ珈琲の入ったカップを見つめ続ける彼女の頬に一筋の涙が流れるのを見ただけで驚いたというのに。彼女の悲しそうな笑顔と賢さんのいつも通りの答え。僕は、彼女を気遣った賢さんの心意気に感激すると同時に、彼女のその美しい横顔に流れる涙が気になって仕方がなかった。彼女はカップから離したその右手で優しく頬の涙を拭って、珈琲をもう一口飲んだ。彼女は壁にかかってある大きな時計をチラリと横目で確認した。まだ湯気の立つ飲みかけの珈琲をそのままにお代をテーブルに置いて店を出ていった。彼女の滞在時間は15分にも満たなかったが、僕には何時間もその姿を眺めていたような気持ちになった。彼女が扉を開けて店の敷居を跨いで行った後も、僕は自分がしていた仕事のことなど忘れて、彼女をただ見つめていた余韻に浸りながら、あの悲しげに微笑む美しい彼女に思いを巡らせた。また逢いたい、そう思った。その後数日間、僕は彼女のことで頭がいっぱいだった。

これを人は一目惚れというのだろうか。


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