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【エッセイ】感受性を殺してでも生きるべきか 

日課で新聞を取りに行く。冷たい風に当たり、私は過去に引き戻された。

抑うつなどの症状が出たのは16の時だ。原因は「記憶があふれる」。今のこの空気は1年前の何月何日、何をしている時、3年前の…4年前の…7年前の…といった具合だ。空気に限らない。音、におい、見るものなど感覚に訴えてくるものはみな対象だ。記憶は毎日積み重なってゆくから、当然、年を重ねるごと、苦しくなってくる。学校に行くにも、とにかく道を歩くだけで辛いのだから、家と最寄り駅の間を泣きながら行ったり来たりして、駅まで行けた時は自分を褒めたものだ。

とにかく新聞は取って戻れた。正直、新聞の中身など、どうでもいいのだ感覚によって苦しみ始めた私が、理性によってそれを乗り越えようとテツガクに傾倒していったのは、いかにも自然である。
(テツガクは、何も哲学書を読むことだけではない。むしろ、読むだけのことだったらテツガクしているとはいえない。当時まだ読んでいなかったデカルトの『方法序説』に書いてあることを、私は高校の時もう実践していた。(例えば問題を数式化すること)。

感覚の重要性が分からない。感受性…〇〇ちゃんは感受性が強すぎるのね、みんなに言われた。だったら何だ、ほめるより助けてくれ。そもそも「~すぎる」とはなんだろう。基準が存在するのだろうか。だがとにかく、感受性を殺すには自分を殺すしかなかった

今、年を経て感受性が鈍化してきた私は、それを嘆くべきか、このまま「生き易い」日々を送っていいのだろうか、ふと立ち止まっては、悩む。

また、後で続きを書く(だろう)。これから新聞を読んで、シャワーを浴びて…日常生活を送るからだ。ああ、私は本当に「生きて」いるのだろうか。日常生活を送ることは、逃避ではないのか…。

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