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悲しみにこんにちはをしないようにフランソワーズ・サガン「悲しみよ こんにちは」を読む|読書記録

『刹那的な快楽の後に幸福はなく、幸福の前に刹那的な快楽はない』フランソワーズ・サガンの「悲しみよ こんにちは」を読んだ感想を一言で表すならばそんな言葉が浮かぶ。


くるくる喫茶うつみ&grandma で「悲しみよ こんにちは」を読む

くるくる喫茶うつみ&grandma

今回の読書記録は、前述の通りフランソワーズ・サガンの「悲しみよ こんにちは」(リンクは広告)である。読んだ経験はなくともタイトルを聞いた経験はある。そんな数ある有名作品の内の一作だと思う。

読書場所として写っているのは、くるくる喫茶うつみであり、この日はgrandmaによるおにぎり販売の日であった。grandmaのおにぎりは、丁度数日前にも頂いている。おにぎりはもちろんのこと副菜やお茶も美味なので、ぜひお勧めしたい。

「悲しみよ こんにちは」を読んで人生を悲しいものにしないための理を考える

他の読書記録同様に「悲しみよ こんにちは」の考察は行わない。フランソワーズ・サガンについても同様である。そもそも世界的に愛読されてきた作品である。今更考察をするまでもなく、数多くの考察が各国で存在している。フランソワーズ・サガンについて何ら知見を持たない筆者が、敢えて考察ごっこをする必要性が微かにも存在しない。

「悲しみよ こんにちは」を読んだ感想は、冒頭で伝えた『刹那的な快楽の後に幸福はなく、幸福の前に刹那的な快楽はない』に概ね集約される。エルザを選んだ後に手にしたのは刹那的な快楽であり幸福ではなく、アンナを選んだ後にあったのは刹那的な快楽を失った遠い未来の幸福だった。その点を指して『刹那的な快楽の後に幸福はなく、幸福の前に刹那的な快楽はない』と表現したわけである。

本作においてアンナの死後については、レイモン・セシル共に刹那的な快楽に興じる日々に戻った姿が描かれているが、そうした生活の行く末は生前のアンナが予知している。少なくともアンナとの生活の先に手に入ったであろう大きな幸福を二人が得られる可能性はゼロに近い。

一方で、仮にアンナが生き続け、レイモンとセシルの3人の生活が続いた場合、大きな幸福を得る未来はあったであろうが、そこに至るまでの長い期間、レイモンとセシルの2人は刹那的な快楽に興じる生活を送れなかったと思われる。もっともセシルの方は送ったかもしれないが。

「悲しみよ こんにちは」が描く幸福になるために必要な取捨選択

フランソワーズ・サガンが意図していたかは定かでないが、「悲しみよ こんにちは」は、快楽と幸福、似て非なるものがもたらす未来を鮮明に描いた作品であるように感じられる。多くの人間が快楽の先に幸福があると意識的無意識的に想像しているが、そうではないことを本作は克明に伝えている。

それもアンヌの死という最悪の結末を以て、快楽の先にある破滅を映し出しているのだから、中々に強烈である。その後のレイモン・セシル両名の以前に戻った生活を描いているところは皮肉的で、あたかも幸福を手放すような愚か者は快楽に溺れていくしかないと痛烈に嘲っているかのようである。

本書が販売され、多くの人々を魅了した時代。もしかするとレイモン・セシルの生き生きとした自由な人生が賛美される形で受け入れられた向きもあるのかもしれない。

だが、人々が鬱屈とした束縛に纏わりつかれていた時代を経て多くの人々が自由に彩られた人生を謳歌するようになった現代にあっては、レイモン・セシルの2人の人生は鮮やかさを薄れさせ、愚か者色が濃く見えるように思える。

幸福の使者たるアンヌは確かに窮屈な存在であったかもしれないが、一方で終始彼女は正しいのである。正しき救世主なのだ。快楽に溺れる生き方しかできないレイモン・セシルにとって、アンヌは天が遣わした救世主ジャンヌダルクであり、不幸というゴールに向かって人生を下っていく二人の前に奇跡的に現れた蜘蛛の糸だった。

だが、どこまでも愚か者でしかない二人は愚かにも自らの手でその糸を断ち切ってしまう。それも自らの快楽のためにである。一時の快楽のために不幸になる道を進む様は人間味があって愛おしいが、愚かであるには違いない。アンヌの生前、快楽的な二人の生活は、どこか陽の光のような輝きに満ちて描かれている。一方でアンヌの死後にその輝きはない。

『悲しみよ こんにちは。』で締めくくられる本作において、アンヌの死後の二人の人生は、従前と変わらぬ快楽的な生活であるにも関わらず、輝きを失い、そればかりか暗澹たる未来の予兆が見え隠れするのである。本作の素晴らしさは、まさにこの濃淡を巧妙に描き切った点にあるとさえ感じる。

快楽を求めるなら幸福にはなれない

『刹那的な快楽の後に幸福はなく、幸福の前に刹那的な快楽はない』のは、何も本作の中に限られない。筆者たちが生きる現実世界においても快楽の先に幸福がないのは明らかである。しかしながら、多くの人々が快楽の先にこそ幸福があると思い込んでいる。

そう言われても釈然としない人々も多いと思うが、快楽を欲望に変えれば幾らか理解が進むのでなかろうか。昨今の分かりやすい例で言えば婚活が挙げられる。理想という名の自身の欲望を条件に並べる男女の多くが、およそ幸福に至れない。

なぜ幸福を手に入れられないかは、「悲しみよ こんにちは」に照らせば理解が進む。つまり幸福を得るためには忍耐や刹那的な快楽からの脱却が必要であり、もっと言えば自身の知性を高め理を理解する必要があるためである。叶ってしまえば消える程度の欲望に溺れたところで、幸福には至れない。

そもそも婚活に成功できない男女は、幸福を獲得対象として認識している点で誤っている。だからこそ彼ら彼女らは自身の欲望を叶えようと身に合わない条件を並べるのだろう。幸福とは手に入れるものではなく、至るものである。つまり歩き続けた末に辿り着く一つのゴールである。

商品棚に陳列されている雑貨のように、簡単に手に入るものとは全く異なる。簡単に手に入るものは快楽でしかない。禁欲や忍耐を続け、自身を磨き上げながら進んだ先にあるものが幸福である。そうした理の違いを認識できない限り、幸福に至ることも幸福感で満たされることもない。

この点はレイモンが教えてくれる。欲望に抗えず一時の快楽を求め続ける生き方しかできなかった彼は、結局のところ幸福に至る結婚を叶えられず、自身の欲望に堕するよりなくなった。それでも彼は一人にならないのだから幸福だと見る人々もいるかもしれない。

だが、レイモンは満たされないのである。満たされないからこそ多くの女性を求め続け、一時の快楽に溺れ続けるのであり、それが出来なくなった瞬間に彼は孤独な老いぼれという、恐らく彼も最も嫌悪し恐怖している存在になる。彼の逃避生活の終焉であり、およそ予定されている彼の人生の末路である。

快楽を求める結果として幸福に至れないケースは、婚活に限らず多種多様な場面で存在している。就職活動や転職活動においても数多くの人々が同様の事態に陥っているし、細かい話で言えば、食欲に負けて健康を損ねるなんて話もまさに快楽を求めて幸福に至れないケースだろう。

「悲しみよ こんにちは」は、そうした幸福論を描いた作品かどうか判断をつけらないが、俯瞰して見たときに快楽と幸福の関係性を痛いほどに描いている作品だと感じる。自身の人生が悲しみにこんにちはしないように、読んで損のない作品だと思わずにいられない。


以下、広告です。ぜひ読んで人生を豊かにしましょう。


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