見出し画像

ブルガダ症候群記

私は大学入試直前に心臓発作を起こし入院しました。程なくブルガダ症候群と診断され、S-ICD(皮下植込み型除細動器)を植え込みました。その後一度発作が起きたものの、現在は元気に大学生活を送っています。

他にブルガダ症候群と診断された人の参考や助けのために、そしてこの一連の出来事を自分の中で昇華するために、自分の経験をnoteで共有することにしました。時系列順で自分に起こった出来事について述べたいと思います。細かい部分はうろ覚えですので、実際とは違う可能性があることをご了承ください。

ブルガダ症候群自体についての説明はこちらをご覧ください。https://doctorsfile.jp/medication/275/

1.(過去編)学校の心電図検査

中学校や高校でたまに心電図検査を受けると思います。私も心電図検査を何度か受けていました。そして毎度QT延長の疑いとして「要精密検査」の結果が返ってきて、病院に行っていました。

私の心臓の特徴として、心拍数が少ないというのがあります(安静時45程度、睡眠時30代)。中高と水泳を頑張っていましたので、その影響でスポーツ心臓のようになったのだろうと診断されていました。(今はブルガダ症候群が原因だと言われています。)一回の拍動が長いことから、QTが長くなりやすいのだとその時は片付けられていました。何度かホルター心電図検査も行いましたが、特に異常も見つからず、運動するとちゃんと心拍数も上がりました。親戚に突然死した人や心臓の悪い人もいなかったので、私の所見は「様子見にしましょう」という程度で、特に問題視はされませんでした。私自身も特に気にすることなく、普通の日常生活を送っていました。

2.発作当日

私は現役での大学受験に失敗し浪人していました。一番最初に発作が起こったのは、この浪人期の最後、国立大学前期試験を5日後に控えた2020年2月20日の夜でした。まず最初に異変に気付いたのは母でした。深夜2時ごろトイレで唸り声が聞こえたので、心配になって声をかけたそうです。しかし反応がないことからトイレのドアを開けると、私が前のめりになって壁に当たり、便器から落ちかかっているところを見つけました。体を揺すって呼びかけても応じないことから、これは異常事態だということで救急車を呼んだそうです。

程なくして自分の意識が戻り、深い眠りから突然起こされたような頭痛(実際文字通りなのですが)と不快感、寝ぼけ感のまま、とりあえず壁を背に座りました。頬には壁を擦った傷がついていて、口内には歯が当たった跡がありました。すぐに救急隊の方が来て、病院まで搬送されました。私は「初めて救急車に乗ったなあ」とか、「入試は受けられるだろうか」とかいったことを考えていました。

病院に着くと、台に移されました。意識もはっきりしていて、とりあえず緊急の状態ではなかったため、心電図をとったり、状況の説明をしたりとしばらくわちゃわちゃしていた気がします。朝になって、心電図の波形から自分がブルガダ症候群の可能性が高いこと、でも他の可能性も探るために色々と検査を受けてほしいこと、しばらくは発作の可能性があるので入院してほしいことを説明されました。その病院はちょうど空き室がなかったため、その先生が掛け持ちをしている、近くの別の病院に再び救急車で搬送されました。

3.検査入院

てんかんの可能性もあるため、入院初日は脳波検査やCT検査を受けました。残りの時間は寝ていた気がします。結局脳には異常はなくて、おそらく心臓の影響で間違い無いだろうということでした。入試直前でしたので、先生が前期や後期に受ける大学の方にも連絡を入れてくださって、なんとか入試を受けられないだろうかと動いてくださいました。結果、別室受験という形で、なんとか入試を受けられることになりました。

二日目と三日目は何回か心電図検査や血液検査をしましたが、それ以外は特に問題もなく過ごしましたので、あんまり記憶がありません。母親が勉強道具を持ってきてくれたのでそれなりに勉強をしていたような気がします。ただ、病室に一人で、ベッドの上で焦りと変な諦観が同居していて、集中はできませんでした。病室から見えた景色をなぜか覚えています。

三日目の午後には再び元の病院に戻って(今度は親の車で)、先生の用意してくれた、LifeVestという着用型の除細動器を受け取りました。(これです。https://www.yokohamah.johas.go.jp/column/2018/08/lifevest.html)毎日バッテリーを交換する必要があり、電極がたまに接触不良を起こすとピーピーなるので、しょうがなくはありますが少し煩わしいものでした。受験当日には、これに苦しめられることになります。夜は自分の家に戻って、LifeVestを着用したまま一晩を過ごす試用運転をしました。

そして四日目の24日、前泊のため地元を出発し、試験会場へ向かいました。両親ともついてきてくれて、受験会場の下見を行いました。

4.大学入試

前期試験は25,26の二日間かけて行われました。25日の朝、ホテルを出発して会場へ。試験は別室で一人行われました。試験一日目は特に問題はなく終わりました。手応えとしても悪くはなく、少しそわそわした気分でホテルへ戻りました。「これで受かったらすごいな、自分」などと本当に余計なことを考えていました。

二日目がきました。ホテルを出発して会場へ。試験が始まりました。そして午後の試験の途中、その時が来ました。突然例のLifeVestがピーピー鳴り始めたのです。どうすれば良いか分からず、あたふたしていると、教室に数人の大人が入ってきました。どうも隣の部屋に医学部の医者の方と事務の方が常に待機してくれていたようです。この辺りの記憶は曖昧なのですが、このLifeVestの音はスイッチを押すと止めることができたような気がします。しかし、しばらくすると再びなり始めました。どうやら定期的に音が鳴るようです。私自身には問題がないことを確認すると、少しの間何か話し合ったあと、そのまま試験を続けるよう言われました。私は言われた通り試験を続けました。時々鳴る機械を止めながら。不幸中の幸いですが、それは試験最後の科目でした。

なんとか試験が終わると、親が迎えにきてくれるまで、その医者に連れられて別の建物に待機していました。おそらくバッテリー切れだろうと私は察していました。医者の方とは試験の手応えや入学後の話などをしていた気がします。親が到着すると、そのまま礼を言ってホテルへと戻りました。LifeVestの音は結局、間違えて前日使ったバッテリーを入れてしまったことによる電池切れが原因でした。何はともあれ、こうして私の前期試験は終わりを迎えました。

試験が終わり地元に戻ると、合格発表まで時間があります。私はしばらく顔を出していなかった予備校に行き、事情を説明しました。病院に行ってエコー検査をしました。あとは後期試験の勉強に集中できないまま、ひたすら自分の点数の皮算用をしていました。

日々がすぎ、合格発表の日になりました。まずは合格最低点を見ました。私の自己採点より下でした。もしかして。気分は盛り上がりました。しかし、合格発表のpdfファイルの中に自分の番号はありませんでした。つまり、不合格でした。試験に落ちた悲しさ、悔しさ、虚しさ、でもしょうがないじゃないかという言い訳、、、しばらくは放心状態でした。涙は出ませんでした。しばらくして後期試験の準備をして、その日は終わりです。

後期試験も別室受験でした。流石に同じ間違いは犯さず、LifeVestに何も言わせずに無事試験を終えることができました。確かな手応えとともに。

5.S-ICD植え込み手術

後期試験が終わるとS-ICDとICM(詳しくはこちらhttps://cardiovasc.m.u-tokyo.ac.jp/clinical/arrythmia/icm)を植え込む手術を行いました。二つの手術は同時ではありませんが、同じ日に行った気がします。手術の翌日に動作チェックがあり、バッテリー残り100%であることなどを確認しました。術後1,2日は起き上がれないほどの痛みがありましたが、痛み止めでなんとか抑えました。この入院中に後期試験の合格発表がありました。合格でした。嬉しさというよりは、ほっとしたのを覚えています。段々と痛みはひき、10日ぐらいで退院しました。退院後は高校に挨拶に行きました。同期の友達とも再会し、この出来事を話すかどうか迷いながらも、隠す理由もないなということで結局話した気がします。誰か共感者が欲しいというのが本音だったのかもしれません。

どのタイミングだったかは忘れましたが、この時期に遺伝子検査のための血液を取りました。

三月も後半でしたので、桜が満開でした。私はこのことを一生話のネタにできるだろうなと思いながら、現実味のない春の幻想に当事者感覚を失っていました。

6.S-ICD適切作動

四月になると新型コロナウイルスの脅威が高まってきて、各地の大学の入学時期がどんどんと遅れ始めました。自分の合格した大学も例外ではなく、四月後半、そして五月へと学期の開始が遅れました。入学式も中止になり、対面でなくオンラインで授業が行われることになりました。このことは私にとってラッキーでした。続く入院や検査で授業に出られそうになかったからです。

四月頭、私に2度目の発作が訪れます。S-ICDを植え込んでからわずかに一ヶ月もたたない時期でした。正直言って、ブルガダ症候群の本当の苦しみはこの発作によって自覚されました。

夜中に私は胸痛で目を覚まします。それも突然目が覚める感じではなく、半分夢を見ているような反覚醒状態で目が覚めました。実際、悪夢を見ていたような気もします。寝苦しさ、頭痛、気持ち悪さを伴った、やけつくような痛みとしばらく闘い、徐々に頭が覚醒します。これはまずいやつだと思い、自分でリビングまで移動し、母親を起こして胸が痛いことを伝えます。(母親は普段リビングで寝ている。)この時は、まだ思考が発作が起きたことに直結していませんでした。とりあえずソファに横になりました。その数分後、突如血圧が下がるような感覚が襲い、思わず「あぁ」と声を出します。意識が途絶え、また戻ります。この時の私の様子は、母曰く、突然白目を剥いて倒れたあとビクンとなったので、すぐ「発作が起きたな」とわかったそうです。自分でも強烈な胸の痛みを感じたので、流石に発作が起きたことを理解しました。救急車を呼んで、病院に搬送されます。病院に着くと、台に寝ます。「まさかこの光景を2度みるとは」と思いつつ、ふわふわした気持ち悪さを感じていました。そして心電図が記録されている状態で、再度血圧が急に下がる感覚を覚えます。少し慣れた私は、(心臓が止まる感覚などあまり慣れたくないものですが)「あ、来ます」とだけ言って意識を失い、再び胸の痛みとともに取り戻しました。私は思いの外冷静に、医者に「今どれくらい意識失ってました?」と聞きました。医者はすぐだったよ。30秒くらいかな的なことを返してくれた気がします。私はこのふわふわした感覚が発作の原因のような気がして、またすぐに発作が起きるのではないかと恐怖を感じていました。医者に気分を聞かれて、ふわふわと気持ち悪いです。と答えました。点滴を打ってくれて、割合すぐにその気持ち悪さは薄れました。そうしてしばらく経って朝になりました。朝になって覚醒すると発作は起こりにくくなります。今度はその病院の病室が空いていたので、私はしばらく様子見で入院することになりました。

私は病室についた後、寝るのが怖くなりながらも、きっと大丈夫だと信じて足りない睡眠を補いました。実際発作は起きませんでした。しばらくするとS-ICDの技術者の方が来てくださって、イベントの内容を確認してくれました。紛れもなく心室細動でした。私も少し波形を見ましたが、ひどく乱雑で、教科書的な心室細動の波形でした。結局、その晩は合計5回発作が起こったようでした。つまり、寝ている間に3回、リビングで1回、病院内で1回です。そしてそのうちの一回でももし適切に電気ショックが行われなければ、私はこの世を去るかもしれないのです。もちろん、S-ICDのおかげでほぼ全ての発作は死をもたらしません。しかし、心停止が、死の危険が一夜にして5度も私の身を襲ったことが、私には恐怖でした。今でも、この日は私の人生において一番影響力の大きい日だと思っています。

私はこれから毎晩この死の恐怖と闘うことを考えると、それだけで生きる意味や楽しさを根こそぎ奪われてしまったような気がしました。もしこのまま一ヶ月に一回のペースで発作が起きるなら、そしてその度に入院をしなければならないとしたら、果たして私は人生を楽しいと思えるだろうか。と。周りに迷惑をかけながら生きる存在は、早く死んでしまった方がいいのではないだろうか。と。この考えは今こそ薄れましたが、確実に私の人生観を深いところから変えました。詳しいことはまた別の記事に書きたいと思います。

翌日以降はトレッドミル検査があったりリハビリ(暇つぶしとして気を利かせてくれたらしい)を行ったりしていましたが、気持ちはあまり晴れないままでした。ただひたすら本を読んでいた気がします。あと、アニメAngelBeats!の曲を聴いていました。今でもこの曲を聴くと、この時の心情を思い出して泣きそうになります。だから聴かないようにしています。

7. 薬の処方

先生からはキニジンという薬を処方され、若いのに薬を飲ませてしまって申し訳ないといったことを言われました。そしてこの日以降、私は毎日薬を飲むことになりました。いつまでかは決まっていません。多分おじいさんになるまでです。もちろん今もキニジンは飲み続けています。多少煩わしくはありますが、これで死の恐怖から解放されるなら安いものです。そして、この時期以降実際に発作は起こっていません。多分効いているのでしょう。医療万歳。

なにはともあれ、私はこの入院を終え、心を深くしながら、家に戻りました。

8.障害者手帳と遺伝子検査結果

この後しばらくは落ち着いていて、大学のオンライン授業も始まりました。遠い大学なので、誰も知り合いはいません。履修登録やらなんやら、全部自分でやっていました。

少し経って、障害者手帳が届きました。等級は3。数ヶ月前まで健全も健全だった自分、障害者に配慮する側だった自分が、今「障害者」。いわゆる「弱者」。なんとも言えない気持ちでした。私は元々障害者を差別する気持ちは微塵もありませんでしたが、そこに加わるとなるとまた話は別です。この頃、障害者になりたくてなっている人は一人もいないということ、そして障害者と健常者の境は曖昧で、その中にも多様性、グラデーションがあるんだというようなことについて考えていたような気がします。

6月になって、遺伝子検査の結果が出ました。そもそもブルガダ症候群だからといって遺伝子異常が必ず見つかるわけでもないようですが、私の場合は見つかりました。これはショックでもあり、異常の原因がはっきりするという意味でラッキーでもありました。私の片親にもその遺伝子異常が見つかったことで、いよいよ私のブルガダ症候群は確実なものとなりました。そして、兄弟の中でこの病気が遺伝したのは私だけでした。

私の病気は遺伝する。このよくわからない病気に具体的な形が与えられたことで、私はそのことについて考えるようになりました。つまり、「初めから遺伝することがわかっていて、子供を作っても良いのだろうか」ということ。そして、「子供を作るにせよ作らないにせよ、この病気によって確実に自分の恋愛のチャンスは減るだろう」ということに。

生死の問題から見れば些細なことですが、普通の生活から見れば十分重い話題です。この問題についてはまた別の記事で書きたいと思います。

9.安定期(~現在)

それからは盲腸で入院したり、研究のためのiPS細胞を提供したりといった出来事がありましたが、一度も発作が起きることはありませんでした。私は徐々に生きる死ぬのことは考えなくなるようになりました。ただ、他の学生と同じくコロナのせいで孤独な状況は変わりませんでした。私は悶々としながらなんとなく夏を過ごし、そして秋になりました。

対面授業が始まるので、私はついに地元を離れました。親が24時間管理人がいる物件を選んだので、私はそれに従ってその物件に住むことになりました。

私はサークルに入り、何人かと友達になりました。春休みには、色々と手続きは面倒でしたが免許も取得することができました。

学年が上がって、私は大学の希望するコースに進むことができました。サイクリングや旅行など、大学生になったらやりたいことも実際に実現できています。

そして今、コロナも落ち着き、大学生活もようやく元の姿を取り戻しつつあります。私は友達と遊んだり、授業の愚痴を行ったりしながら、普通に楽しい大学生活を送っています。

最初の出来事から2年ほど経って、定期検診や薬、毎週のデータの送信、酒の制限など、いまだにこの病気が完全に生活から離れることはありません。しかし、それでも今は十分に幸せな生活を送れていると思います。少しではありますが、将来に対して希望というか、大抵のことはできるんじゃない?的なノリも戻ってきました。まだ今後何があるかはわかりませんが、私の経験が、少しでも誰かの希望になれば幸いです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?