見出し画像

■【より道‐71】戦乱の世に至るまでの日本史_「足利一門」三管領・細川氏

日本史にふれると、細川氏の名を良く見聞きすることがありましたが、正直、興味が全くなかったので頭に留めず、右から左に聞き流して生きてきました。まあ、知っていても、細川元総理大臣が、細川氏の末裔だというくらいでしょうか。

しかし、ファミリーヒストリーを調べるうえで中世、とくに、「応仁の乱」を調べるには、細川氏のことを知らないと語ることができません。今回は、鎌倉から室町の時代に細川氏がどのようにして、成りあがっていったのか調べてみたいと思います。


■細川一族の台頭
鎌倉時代の細川氏は、三河国細川郷を本拠地とした御家人でした。1333年(元弘三年)「元弘の乱」で、新田義貞が鎌倉攻めをする際には、足利尊氏の息子、千寿王せんじゅおうのもとに合流しました。

鎌倉討幕を果たし、北条平氏が滅亡すると、足利尊氏は京の都で武士たちを取りまとめることになったため、鎌倉の地は千寿王が治めることになります。しかし、千寿王はまだ、四歳の幼子です。

そこで、足利尊氏は、細川氏に千寿王をサポートさせるように命じました。この頃の細川氏との関係は、足利氏の支流で、ご先祖様を5代くらい辿ると平安末期には兄弟だったという間柄です。

1335年(建武二年)、北条氏の残党が挙兵をして鎌倉に向けて進軍してくると、細川氏は、京の都から駆け付けた足利尊氏と共に反乱を鎮圧しました。

そして、足利尊氏は、そのまま鎌倉に居座り、後醍醐天皇の許しを得ずに勝手に恩賞を与えると、その行動に怒った後醍醐天皇が足利討伐を命じました。そのときに、細川氏は、足利尊氏と共に京に向けて兵をあげました。

後醍醐天皇の側近で公家の北畠顕家きたばたけあきいえが東北から足利一族の背を討つと、大義名分のない足利尊氏は、光厳上皇の綸旨を得るために九州へ渡りました。この時、細川氏は、四国地方に派遣されますが、わずかな期間で四国を平定したといわれています。

1336年(建武三年)足利尊氏が、持明院統じみょういんとう(北朝)の光厳こんごう上皇の綸旨りんじを得て、各地の武士を束ねながら、京を目指すと、「湊川の戦」では、細川一族も合流して楠木正成くすのきまさしげを打ち破り、室町幕府が開かれました。

室町幕府が開かれると、細川氏は、阿波・備後の守護となり、南朝との戦いで活躍をし続けます。

しかし、1350年(観応元年)天下をわける兄弟ケンカ「観応の擾乱」では、当初、弟の足利直義派に属していましたが、足利尊氏、足利義詮派に転じて勝利に貢献しました。

その後も、足利直義の養子である足方直冬ただふゆ討伐に参戦するなど、常に、足利尊氏、足利義詮を支える重要な活躍をし続け、1358年(延文三年)足利尊氏が亡くなり、足利義詮が征夷大将軍になると、「執事」のちの「管領」として、足利義詮を支えました。

ここまで、ほとんど順風満帆な判断をし続けてきた細川氏ですが、1361年(康安元年)に、権力争いに敗れ失脚し、一度、南朝に寝返っています。そのときに、執事の後釜を担ったのが、斯波しば氏になります。

1363年(貞治二年)になると、それまで南朝に属していた山名氏、大内氏が室町幕府に帰参すると、南北朝との争いも落ち着きます。そして、1366年(貞治五年)執事の斯波氏が失脚すると、佐々木道誉の推薦もあり、執事の代わりにできた管領の職に返り咲くことになりました。

そして、1367年(貞治六年)、足利義詮が亡くなると、管領として、まだ、九歳だった三代将軍・足利義満の後見人、教育を任されることになるのです。


細川氏のややこしいところは、一族の勢力がありすぎて、多くの支流があることだと思います。これを覚えないと歴史が語れないのであれば、心折れそうになってしまいますが、なんとか、整理してみようと思います。

1333年(元弘三年)の「元弘の乱」で活躍したのが、宗家の細川和氏かずうじ、細川頼春よりはる、細川師氏もろうじの細川三兄弟です。

すでに、ここでややこしくなるのですが、この三兄弟には従弟がいまして、こちらの従弟達は、細川四兄弟でした。

三兄弟と従兄弟の四兄弟は、チカラを合わせて四国を平定しますが、足利義詮の補佐をしていたのは、三兄弟の長男・細川和氏でした。そして、次男の細川頼春が、阿波、伊予、備後、日向、越前などの守護大名でして、三男の細川師氏は、淡路の守護大名となりました。

一方、従弟の四兄弟は、讃岐、河内、和泉、土佐の守護職や、幕府の重要な役所などに就きました。

そして、この世代の次の世代、細川三兄弟の息子たちは全部で12人いましたが、足利義詮の時代に、宗家の細川和氏の息子、細川清氏きようじが、南朝に裏切ったので宗家である長男の一族は、滅ぼされてしまいました。

そこで、宗家を継いだのが、細川三兄弟の次男、細川頼春です。この、細川頼春の子孫たちが繁栄していき、宗家の細川京兆家けいちょうけや分家の細川典厩家てんきゅうけ、細川野州家やすけ、庶流の細川讃州家きしゅうけ和泉守護家いずみしゅごけ備中守護家びっちゅうしゅごけなど、13系統ほどに増えていきました。

今後、細川氏が長谷部氏のご先祖さまと関係してくるのは、1511年(永正八年)に発生した、10代将軍・足利義稙よしたねを擁立する細川高国たかくにと、11代将軍・足利義澄よしずみを擁立する細川澄元すみもととの間でおきた、家督争い「船岡山合戦」に参戦しています。

細川氏の系統でいうと、細川高国が宗家の京兆家で、細川澄元が讃州家になるのでしょうか。

まだ、頭の中が、ごちゃごちゃしていますが、少しだけ細川氏の整理もできたような気がします。


<<<次回のメール【214日目】ファミリーストーリーの三原則

前回のメール【213日目】ご隠居の独り言>>>


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?