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■【より道‐48】家系図から読み解く山名氏との血縁

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、長谷部氏の氏祖、長谷部信連が生きた時代が舞台ですので昨年から楽しみにしていました。

心待ちにしていた第一話をみると、小栗旬さんが演じる「北条義時」が、大泉洋さんが演じる「源頼朝」に女装をさせて逃げ出すシーンからはじまりまったので思わずツッコミをいれてしまいました。

史実では、長谷部信連が以仁王もちひとおうを女装させて逃したのに、、と思いながらも、今回の大河ドラマでは信連は出てこないのだろうなと思います。まあ、「源平合戦」で活躍したわけでもないので仕方ありませんね。

しかし、長谷部信連のお兄さんは、たくさん登場しています。佐藤B作さん演じる「三浦義澄」です。我が家の「家系図」には、長谷部信連が三浦家の枝分かれと記載されていますのでこれからの展開が楽しみです。

そんな事を考えながら、わが家に残された「家系図」を詳しく眺めていると面白いことに気がつきました。それは、三浦義澄や長谷部信連の祖父らしき位置に「三浦義継」と記載があるのですが、その隣に「女:山名伊豆守室」と書いてあるのです。

山名氏と言えば室町時代に日本66国のうち11国の守護職となり六分一殿と呼ばれるような一族ですが、この内容をそのまま鵜呑みにすると三浦氏と山名氏は血縁関係だったということになります。

ということは、伯耆に残されたご先祖さまは山名氏に従属していた可能性が高いです。そこで、山名氏の歴史を紐解くことでファミリーヒストリーのヒントが見つかるかもしれないと思い、山名一族の歴史を調べてみることにしました。


■ 山名氏の歴史

山名氏は、清和源氏せいわげんじの家系で名門・新田氏の一門。源義重みなもとのよししげまたの名を新田義重にったよししげの息子、新田義範にったよしのりが、現在の群馬県高崎市山名町周辺を発祥の地として山名義範やまなよしのりと称するようになり、山名氏の始祖となったそうです。

もうこの時点で、呪文を唱えているようで、なにがなんやらお腹いっぱいです。

まず、清和源氏というのがよくわかりません。調べてみると源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族だそうです。

ちなみに平氏には桓武かんむ天皇から派生した桓武平氏、仁明にんみょう天皇から派生した仁明平氏、文徳もんとく天皇から派生した文徳平氏、光孝こうこう天皇から派生した光孝平氏の四流派があるそうです。

なぜこのように平氏と源氏が分かれたのかはわかりませんが、まあ親戚関係ですかね。

さて、山名氏に話しを戻します。新田義範あらため、山名義範は他の兄弟と比較されて新田荘内の所領を分与されず、新田氏の中でもかなり冷遇されていたそうです。

しかし、源頼朝の挙兵時にいち早く参戦したことで、鎌倉幕府設立時には優遇されて1185年(文治元年)に伊豆守に任じられたそうです。また、山名氏はこの頃から足利氏と血縁関係があったと言われています。

ときが経ち1331年(元弘げんこう元年)からはじまった「元弘の乱」で、鎌倉幕府は山名氏の本家である新田義貞にったよしさだの手によって滅亡しました。

「元弘の乱」がどのような話しかといいますと、フビライハン率いる蒙古軍が海を渡って日本に2度も攻めてきまして、幕府や御家人たちは多くの戦費や兵力を使いながらも蒙古軍を追い返しました。

しかし、この戦いは防衛戦だったため、幕府は武士たちに論功を与えることができませんでした。

命をかけて日本を守ったのにもかかわらず褒美もなにももらえなかった武士達に不満がたまると、政権を朝廷に戻したい第96代・後醍醐天皇がここぞとばかりに討幕を企てます。

しかし、幕府側に計画がバレてしまいまして、後醍醐天皇は、隠岐に流されてしまいました。この対応に各地の武士たちが立ち上がり、北条氏を追い詰め鎌倉幕府が滅亡しましたという経緯です。

幕府が滅亡すると後醍醐天皇は、自ら政治を行おうと公家などに恩賞を厚く与えますが、命をかけて討幕を果たした武士達を冷遇してしまいます。

みかねた足利尊氏あしかがたかうじは、自分に従った武将たちに独断で報奨を与えると後醍醐天皇が怒りだしまして、足利尊氏を朝敵として、新田氏に討伐するよいに命令をしました。

足利尊氏は、一度九州にまで逃げますが光厳こうごん上皇の後ろ盾を得ると西日本の武将を味方につけて、新田義貞を倒しついには後醍醐天皇を降伏させました。

このとき、山名一族の当主・山名時氏やまなときうじは、本家の新田一族と袂を分かち縁戚である足利尊氏に従いました。

その結果、室町幕府を開くときには、伯耆国はじめ山陰地方の守護職に任じられて勢力を広げたと言われています。


わが家の「家系図」をみてみると、「元弘の乱」で後醍醐天皇を守るために長谷部信豊左右衛門尉が合戦で討死したと記述されていますので、新田氏や山名氏と共に鎌倉幕府討幕に加勢したのだろうなと思います。


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