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■【より道‐24】ノモンハン戦争に至るまで③

全て結果論。平和な時代に生きている自分が思うことは、日中戦争勃発の理由となった「盧溝橋事件」は日本や中国、毛沢東の共産党、蒋介石の国民政府、関東軍に親を殺された張学良、反日分子など、多くの人たちの謀略が入り混じり「張作霖爆殺事件」や「満州事変」国内では「五・一五事件」や「二・二六事件」などの全部のツケが回ってきた。いわば因果応報のような事件に思える。

満州国を設立したうえで、徳川家康のように戦後処理にチカラを注いでいればこのようにならなかったのだろうか。それこそ、「万系一世」や「皇軍」と謳っているのであれば、日本の歴史、戦国時代にどのようなことが起きたのか、宮中はじめ政府や軍人さんたちは沢山学んでいたはずだ。徳川家康が幕府を開いてから明治維新まで260年もの間、平和を維持することができたのだから。



【ノモンハン戦争に至るまで③】
昭和十一年(1936年)「二・二六事件」が起きたあと、軍の暴走を抑えていた宮中の側近や政府の人たちは、いわば脅迫されているような状態になり、命を狙われ殺されかけた岡田啓介内閣は解散した。そして、広田弘毅内閣が組閣するのだが、このあたりから軍人の都合の良い政策がどんどん決まっていくようになってしう。

まずは、「軍部大臣現役武官制」の復活。これは、現役の軍人でなければ、陸軍大臣や海軍大臣になれないという制度。この政策で影響力のある口うるさい年寄りたちは政治に関われなくなった。次に日本とドイツの「防共協定」を結んだということ。ドイツも国際連盟を脱退していたので手を組もうという話だと思うが、これがやがて成立する「日独伊三国同盟」の基礎となる。そして、陸軍の「統制派」や海軍と話し合い「北守南進」の方針、つまりアメリカと戦うことをこのときに決めたのだ。

続いて第一次近衛内閣が組閣すると、昭和十二年(1937年)7月に「盧溝橋事件」が勃発し日中間の全面戦争が始まった。きっかけは、「二・二六事件」で左遷させられた「皇道派」の牟田口廉也隊長の独断命令。『中国側から弾が撃ち込まれた』『いやいや、日本側が進軍してきたから戦争が始まったんだ』等、互いに言い分はあるのだろうが、「対支一撃論」を構想していた陸軍「統制派」たちにとっては好機到来。ここぞとばかりに、ものすごいスピードで中国軍を殲滅し南京を目指していった。

そして、現代でも外交問題の題材となっている「南京事件」が起きる。自分たちには正直わからない問題だ。ただ、中華民国は三十万人の一般人が亡くなったと主張しているけど、そんなわけはないだろう。軍隊よりも多い、三十万人もの一般市民をどうやって殺害するのだと、突っ込みたくもなるが、日本の侍、武士道として正しい行いをした軍人と、人間の欲望にまみれた軍人の両方が存在していたのだと思う。

義を貫いた軍人は弱いものを助け匪賊からの襲撃を守り感謝され、欲にまみれた軍人は、村を襲い虐殺し金品や食料を略奪する。若い女性は強姦、陵虐された。罪なき一般人、弱い者が戦争の犠牲になるは、いつの時代、どこの国でも一緒だ。日本も連合国に同じようなことをされたし、最前線の軍人たちが命をかけて戦う理由の一つだとは思うが「人間が人の道を外れてしまう」のが戦争というものなんだろう。

その後、中国政府は「日本軍が攻めたら逃げ、駐屯したら周りで騒ぎ、撤退したら自らが駐屯する」という、ひらひらかわすアウトボクシングのような戦術を徹底すると、広大な土地がある中華民国に関東軍は参ってしまった。そこで、戦争を終わらせるために様々な策を練って和平交渉成立一歩手前まで進め、石原莞爾さんが蒋介石との面談を設定したそうだが、内閣総理大臣の近衛さんが当日ドタキャン。「賠償金をよこせ!」と、せっかくまとまりかけた話をひっくり返してしまったそうだ。

その後、近衛さんは、昭和十三年(1938年)に「国民政府(蒋介石)を相手にしない」と声明を発表し日中戦争の和平交渉をしないことを宣言すると、蒋介石と対立していた汪兆銘に南京国民政府の新政権樹立を後押しして「東亜新秩序の建設」を唱えた。ようは、日中戦争は日本と満州、中国(南京政府)が手を組んでアジアに新しい秩序をつくるための戦争をしているのだと主張したのだ。この声明を聞いた欧米からすると「ヨーロッパやアメリカとは連携を図らず、あたらしい世界をつくるのだ」と日本が勝手に宣言したと受け止め、ますます孤立化の道を歩むことになった。

そして、なによりも、昭和十三年(1938年)に制定された、「国家総動員法」という日本人、全国民を不幸に導く政策を決めた。その内容は、国民を自由に徴用できる俗にいう赤紙制度や給与の統制、物資の生産・配給・消費の制限。会社の利益や貿易の内容まで管理することで全ての日本国民は戦争のために身をささげることになる。陸軍「統制派」の思い描いたとおり総力戦の体制が整ったのだ。

このようなプロセスを経て、ご隠居が誕生する昭和十四年(1939年)に平沼騏一郎内閣が組閣され「ノモンハン戦争」が勃発するのであった。


冒頭に、徳川家康のように戦後処理をうまくやればよかったと書いたが、色々調べていくとそんなことできるわけがないと思えてきた。こんな状況だと本当に難しかっただろうな。なぜなら、日本や満州だけの国内問題ではなく世界情勢の影響がこのような判断をせざるを得ない状況になっていたのだから。

「第一次世界大戦」「内戦」「革命」「世界恐慌」や「パンデミック」。

どの国も貧しく人命を軽んじていた。隣の国では隣の国を植民地化し「虐殺」や「迫害」があたり前のように行われている。アメリカやイギリスはしたたかに日本を追い込んでいき逃げ道がなくなってしまった。

戦争犯罪と呼ばれる「人道に対する罪」や「平和に対する罪」は、あの時代、戦争に関わった全ての国や人が犯した罪のことをいうのだと思う。しかも、不可抗力で。

もともとは、ペリーの恫喝から始まった戦争物語。坂本龍馬が唱えたように「抑止力をもって戦争を起こさせない」という道を選ぶことはできない時代になってしまっていたのだ。日本が日本人が生き残るために、なるべくして軍事国家の道を進んでしまったとすると、果たして、同じような状況や、同じような状況に追い込まれそうになったとき、

現代を生きる自分たちや未来の日本人はどんな判断をするのだろうか。


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