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半袖と長袖、どっちでもよくて、どっちでもよくない

気づけば5月も、のこっている日数のほうが少なくなっていて「ことしはずっと肌寒いですねえ」なんて話をしていたのが遠い昔のようだ。車の窓を開けたり閉めたりすることの、こどものころのよろこびが、この季節にだけ、われわれ大人のなかにも存在する。

それでも例年にくらべれば、ことしはちょっぴりすずしいような気もする。こどもの日あたりには毎年、「エアコンつけてもいいな……でも……」なんて日が一日くらいあるから。わたしが年をとっただけかな。年齢とともにあつさに鈍感になるというのは、ほんとうだろうと実感する。

このような理由で、半袖を着るのか、長袖を着るのか、朝いちばんの選択がむずかしい日々が続いている。これからもしばらく続きそうだ。
依然としてむずかしいのだけど、なんとなく「半袖着ても寒くないかな?」という、根拠のない自信というか、恐怖というか、期待に満ちた朝が増えてきた。

わたしは日に焼けると肌が真っ赤になってしまうので、どちらかといえば半袖や袖のない服は嫌いだ。すくなくとも、昔はそうだった。いまはあんまりよくわからない。もしかするとわたしは宇宙空間にくらしているのかもしれないね。
だけど、こういう気候の季節にだけは、半袖をためしてみたくなる、抗いがたいドキドキが存在する。たぶん、「やっぱりちょっと寒いか~」と、ひとり、あたまのなかで呟いているのが好きなんだろう。「こういう気持ちだけで、わたしは毎日くらしていけるのだなあ」とわれながら笑ってしまう。よい言いかたをすれば、エコ・フレンドリーかもね。

「やっぱりちょっと寒いか~」という日だって、なんとか我慢できるくらいの肌寒さだったりするのが、この季節のいいところだとおもっている。よく考えてみてほしい。この季節以外で、服装をまちがえることは、この国では死を意味する。そうですよね。「うわ~、まちがえたな~」なんて軽口をたたけることの、なんとすばらしいことだろう。

そのような意味で、えらぶことがむずかしい、ということは、かんたんである、といえるのかもしれないね。
どちらもいまいちしっくりこないのならば、どちらもその状況にぴったりである、ともいえる。
論理学の世界では、これは不正解だ。灼熱の夏に長袖は着てはいけないし、白銀の大地ひろがる冬場に半袖を着てはいけない。でも、それさえ守っていれば、何事もうまくいく。そうと決まっている。そういう世界だ。けれど、われわれの日常生活は、5月のなかばは、もうすこしやさしく、無限にひろがっていて、そして、おそろしい

われわれが考えているほど、人間の選択というのは意味をもたないのだとおもう。これはけっして、「意味がないから、何も考えなくてよい」という意味ではない。
われわれはふだん、死に直面していないからこそ無限のひろがりをもつ、やさしく、おそろしい世界にくらしている。だから、だれかの選択を責めたり、けなしたりしないようにしたい。そして、じぶんがなにかえらぶとき、その行為のもつ根本的な無為さと、やさしい強い気持ちと、そのふたつの「矛盾」のなかで、「どっちでもよくて、どっちでもよくない選択」をしたいものです。

羽織るものをもって出かけたり、長袖をまくったりして、かしこく暮らしている市井の偉人たちに敬意を表しながら、わたしは半袖を着て、じぶんには苦笑いしながら、肌寒い夕暮れを過ごそうと思っています。
またね。

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