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格差社会を生きるということ

ビジュアルがイケているか、不細工か。
頭がいいか、悪いか。

人間はたいてい二元論で物事を片付ける。

そしてほとんどの場合、2つの分類では飽き足らず、さらに細かい基準を設け始める。
「このクラスで一番可愛いと思う女子は?」とヒソヒソ話をする男子がいる。
日本中のあらゆる大学に、A+だのFランだのとランク付けをするサイトがある。

こうした階層付きの二元論的世界の中で、現代人はしばしばアイデンティティを失うことを余儀なくされる。「自分が今、全体から考えてどこにいるのか」のピラミッドを頭に浮かべるたび、(ほとんどの場合) 頂点にいないことを悔しく思う。それは根本的に人間が負けず嫌いであり、潜在的に利己的な存在であるからに他ならない。


これらの評価が、すべて数字でつけられる世界に人間はいる。数字のいいところは誰にでも伝わるように定義されたものであり、明確なランキング付けができるところにある。しかしながらそれは大多数の人間の後悔や嫉妬を招くことにもなる点で、欠点の裏返しであるとも言える。

それは源泉徴収票に書かれている給与の額かもしれない。
ソシャゲのイベントの順位かもしれない。
noteのフォロワーの数や、各記事のスキの数かもしれない。
人間はいつも数字に囚われて、他人と比べながら生きている。

もういっそ「かなりたくさんのフォロワー」とか、「すごくすごい」とか、概念的な表現で表してもらったら、余計な感情を抱かずに済むのかもしれない。実は幼稚園生や小学生の頃の屈託のない評価のほうが、誰も苦しまなくて済むのだろうか。


数字から生まれた時間という概念もかなり厄介だろう。
時間によってもまた、人間は細かく管理されている。もはやスマホや腕時計がなければ現代人は時間を確認できず、オロオロしてしまうのは間違いない。

時間もまた誰しもわかるように定義されていると同時に、人を縛る能力がある。コアタイムが10時から17時までの研究室には、たいてい10時前後になると全員のメンバーが集まるようになる。
元々各人やりたいようにやっていた人間がここまで高度に統治された国家を築けたのは、一番には時間の概念が原因にあると言っても過言ではない。

時間は階層分けによる評価と合わせ技で用いることもできる。
典型的なのが学校のテストで、あれは時間さえあれば誰でも解き切れることを前提として、時間制限を設けることでその要素を排してより効率的に階級分けができるようになっている。

時間というのはもともと (腹時計とか日長の感知などはあったにせよ) 人間に備わっていた概念ではないから、得意不得意があるのは仕方がない。それすらも問答無用で、有無を言わさず人を強制できてしまう宗教的な強さが、時間にはある。


人間を人間たらしめるものが理性と知性であるとするなら、そんなもの捨ててしまう時があったっていいと思う。もちろん他者を傷つけたりしないという社会性は確保した上で、しばしの間は周りからの評価から目を背け、時間を忘れて自分の興味の赴くままに行動してみてもいいはずなのだ。
ぼーっと空を眺めてもいい。大好きな漫画を読み漁ってもいい。
人間には納税の義務はあっても時計を見る義務はない。

ひとたび本能のままに生きる自分から離れ、日常に戻ると、時間と評価に縛られた現実が具体性をもって戻ってくる。小さな絶望感と共に、人間であることを再認識させられる。そうしてまた社会に飲まれていく。
人間には勤労の義務がある。そしてまた、教育を受けさせる義務がある。


お金という数字が大量に集まったら、しばし理性の世界を外れて放浪でもしてみたいとずっと思っている。本能を知り、格差社会の中では見えなかった自分の潜在能力が開花するのではないか?とか、思ったりする。

そうしたらまた、ここに書いて残す。
そのときまでには、評価を気にせず自分の作品を心から愛せる人間でありたい。


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