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「斜陽」に学ぶ人生

こんばんは。
うつろです。

昨日の記事を書いてから、やっぱり「斜陽」が気になって、夜中に手に取ってしまいました。ぽつぽつと降る雨の音は、リラクゼーション音楽よろしく僕の集中力を高めてくれたようで、ほとんど詰まることなく読み進めました。

本編を読み終えた時にはすでに2時過ぎ。
歴史の類が苦手なので「解説」を読むのは避けましたが、角田光代さんの「作品解説」には目を通してみました。ユーモアを交えつつ、的確かつ大胆に自身の心境の変化が語られた、たった数ページの批評に唸っていると、もう3時前でした。


ストーリーをご存知ない方のために軽く内容を説明しようかな。あまり踏み込みすぎるとネタバレになってしまうので前半部分だけにしておきます。

主人公・のぶ子とその母親は、かつては貴族の身分で羽振りよく暮らしていたが、戦争への敗北をきっかけにその地位は失墜、親戚からの援助なしには生活できない日々を送っていた。弟・直治は戦争に派遣され、行方はわからなくなっている。母親は次第に精神を来し、病気がちになっていく。

直治が無事に帰ってきて事態は好転するかと思われたが、母親の調子はますます悪くなり、直治は上原という小説家に会いに東京に出張に行ってしまいと、思うようにいかない。そんな中、三十路を間近にして自らの人生を考え始めるのぶ子は、数年前に上原と逢って一夜を遂げたことを思い出し、当時の淡い恋心そのままに、上原に手紙を送りつけるようになる。

戦前までの華やかな貴族生活が戦争を境に一変、みるみるうちに堕落していく様子が狂おしいほど鮮明に描かれたこの作品。あらすじを見て覚悟はしていましたが、実際に読み進めてみて、報われないことの多いこと、多いこと。唐突に話が動いたあの瞬間には、思わず口から「え、まじか」と声が出ました。


登場人物に往々にして言えるのは、「人生は醜く儚い、それでも、生きていかないといけない」という観念。戦後という当時の情勢も相まって、それぞれの人がそんな諦めにも似た思いを心のどこかに隠しながら、暮らしているのを感じます。

そして、生きることの動機は、ある人には家族だったり、ある人には子孫だったり、ある人には一時の快楽だったり、とそれぞれ違っているのも興味深いものです。変わりゆく時代の中で、どうにかして自分がここにいていい理由を (あるいはいなくてもいい理由を) 探しながらもがき苦しむ、人のどろどろした生臭さが、僕にはある意味美しく見えました。

僕の人生観とはたしかに違います。それでも、全く違う観点から「生」について、「死」について考えさせられたこの経験には、大きな意味があった。小説は話の面白さに膝を打つだけではなくて、自分の人生についても考えさせられるものだと、こうして気づきを得たわけです。

「『斜陽』から見える人生観は、他の太宰治作品にも描かれている」と、角田さんは作品解説で説明されていました。「人間失格」あたりは、少なくとも今年中には買って読みたいと思います。


もうひとつ大きかったのは、読書への向き合い方。

このたび、こうして「斜陽」を読むまでの自分は、本気で読書をしたことがありませんでした。読んだその直後は一時的におもしろいと思っても、日々の生活に戻るとすぐに忘れてしまう。詳細な流れはおろか、あらすじを言うことすらできない。そんなことを繰り返すうちにいつしか、「自分は読書には向いていない人間なんだ」と自分の可能性に蓋をして、活字への姿勢が疎かになっていました。

そんな中で風邪をひいて大型連休を迎えた。
世間的には「かわいそうに!」な出来事だけれど、僕にはむしろそれが良かった。

新しい自分に気づけたから。「読書に向いていなかった」のではなく、「読書と向き合っていなかった」のだと気付かされたから。集中力ひとつで、読み方ひとつで、こんなにも面白いストーリーと出会えることに気づいてしまったから。

読書が好きになった、今年のゴールデンウィーク。
自転車で内陸県を回るのとはまた別の、大きな達成感と成長の実感を得ることができました。


もっと多くの「人生」について知りたい、感じたいという思いから、深夜に高校の現代文の教科書を引っ張り出しました。
夏目漱石「こころ」や森鴎外「舞姫」など、長めの小説も入っています。

授業では特徴的なシーンや単語しか頭に残らなかったそれぞれの話が、今なら全編通して楽しめる予感があります。今後も忙しい合間を縫って、土日くらいは読書に時間を充てていきたいです。


早めに書けたので、今日は「魔女の宅急便」でも見ようかと思います。
感想が浮かんだら明日にでも書きます。

それでは。

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