なぜ面白くないのか、ようやくわかってきた
今日は母親と外食に行ってきました。
最寄り駅から5分ほど歩いたところにある焼き鳥屋さん。実家に顔を出しに行っていて少し遅くなった母の代わりに、「20時から2名」と先に予約を済ませておきました。1年ほど前、金曜の夜にアポなしで向かった店には「満席で入れない」と一蹴されてしまったので、その時の轍を踏まないようにとの試みです。店にこだわりはないようで、予約したと伝えるとひどく喜んでくれました。
厨房側がレンガの壁になっている小洒落た内装で、店のつくりからイタリアンレストランを居抜いたようにも見えました。キッチンも、おじさん店主が汗をかき、店にはモクモクと煙が上がっている下町風のスタイルではなく、どこかスタイリッシュさを感じさせる店員さんが綺麗なグリルで鶏肉を焼いています。
母にはお酒を飲んでもらい、自分はジンジャーエールで我慢することにしました。外食の際に欠かさず免許証を持っていたのが、ここに来てようやく功を奏しました。
おすすめの20本盛り合わせを注文すると、ランダムに選ばれた串焼や串カツが運ばれきます。初めの5つは串カツ、後半5つは串焼きの、計10本×2人分というラインナップ。
串カツの中ではうずら卵が特に良かったです。縦長の卵をあえて横向きにして串に刺しているのが、無理に大きく見せない謙虚さを表しているようですごく好印象でした。
串焼きの中ではなんといってもせせりが絶品でした。お肉自体が大きいのもそうですが、鶏肉とは思えないほどの脂ののり具合、ジューシーな焼き加減。串に巻きついている最後の最後まで飽きずに楽しめる大満足の一本は、盛り合わせに次ぐ人気商品というのも納得です。
盛り合わせの後に追加で「しそせせり」を頼んだくらいには、お互い気に入ったメニューでした。
今日行ったお店は居酒屋の雰囲気、しかもカウンターに座ったので、何か話をしながら飲み物を呷り、串を口に運び、ということをやるのが普通でしょう。周りも相当騒がしいですから、自分たちだけスマホを片手にディスコミュニケーション、というのはなんだか空間から疎外されているように思いますし、何よりなんとなく感じが悪い。
母親は気を抜くと黙ってスマホを見始め、ボソボソと独り言を口にし始めるタイプなので、なるべく話題を提供するように心がけました。といっても母と子が対等に議論できる話題のベン図の共通範囲はそれなりに狭いですから、普段は使わない頭を使うことになります。
ここで僕が無意識に使ったのが、「結論を設定して、それに関連する話題を先付けする」ということでした。
例えばせせりのおかわりを提案するとき。
前半の話はもちろん嘘ではありません。でも「せせりをもう一つ頼みたい」という話題が最後に付かなければ大して面白い話でもないし、ただのお気持ち表明になってしまう。
それを、その場の話題に合わせて終着させることで (つまりオチをつけることで) 話題にしたわけです。手前味噌かもしれませんがこの手のことをするのは割と得意です。今日だけでも、あと2回くらいはこの手の話の回し方をしてました。
もう一つ、これまた無意識に使っていたのが、「考えさせる」話題を持ち出すこと。
一方的に話をするだけではなくて、相手にも何かしら考えてもらう。するとお互いにアイデアが出て、自然に会話を繋いでいくことができます。
本当の意味で話題を「提供する」ということです。
もちろんこれらを計算高くやっていたわけではなく、母親と話を続けるためにはこうした方がいいなと漠然と思っていたんでしょう。家に帰って振り返ってみて、自分でも初めて気付かされたことです。
これを踏まえて母親の出してきた話題を振り返ると、この2つが欠けていることが多かったことを実感します。
なるほど、だから、自分は「つまんないな」と感じてしまったのか。
妙な納得感がありました。
ただ、「つまんないな」と思ってしまうのは僕自身の問題でもあります。
円滑に関係を築くには興醒めしてコミュニケーションを投げ出すのではなく、自分の力で面白い話題に変えていかないといけません。会話にユーモアを追求するなら尚更です。
これまでの記事では散々「親の話がつまらん」と言いまくりましたが、つまんねぇならお前が面白くしてみろって話なわけです。
話題提供のテクニックをいちいち親に教えるのも恥ずかしいので、自分で話題の舵を切って、楽しめるように変えていかないとな、と少し反省しました。
世代のギャップを埋めるにはこちらが頑張るしかなさそうです。
おわり。
p.s. この記事自体も、「親の話がつまらんと投げ出すのはよくないよね」という結論に繋げるために、今日の外食の話題を持ってくるという流れになっています。
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