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「くもりガラスの銀曜日」を読む―他者と美的経験―

文:shin
※この記事は『アイドルマスター シャイニーカラーズ』(以下、シャニマス)より「くもりガラスの銀曜日」のネタバレを含みます。


ABSTRACT

 いわゆる「考察」でこれまで盛んに指摘されてきた通り、「くもりガラスの銀曜日」は、自分と隔てられた存在としての他者を肯定的に受け止め、他者を愛おしく思う感性を描いている。
 このnoteでは、そのような「他者」へと向かい合うという灯織たちの経験は、ある種の美的経験として描かれていることを示す。
 そして、私たちユーザーが彼女らに向き合う経験もまた、同様な美的経験として特徴づけられると主張する。
 最後に、シャニマスがアイドルを主題としていることなどが、私たちの美的経験を際立たせていると述べる。

1. 今さら「くもりガラスの銀曜日」?

 既に「くもりガラスの銀曜日」(以下、「くもりガラス」)については、たくさん語られてきた。特にシャニマス界隈ではいわゆる「考察」が盛んで、もはや語るべきことは残されていないように感じるかもしれない。
 このnoteでは、美学[aesthetics]という学問分野における議論を参照しながら、「くもりガラス」で描かれる特別な経験を掬い上げようと試みる。
 これによって、これまで語られてこなかった「くもりガラス」の魅力を、あるいはすでに語られてきた魅力を新たな仕方で、提示してみたい。

2. 「くもりガラスの銀曜日」はどんなコミュか?

 まず「くもりガラス」がどんなコミュだったのか、振り返ろう。ここでは、既に語られてきたことの繰り返しになってしまうかもしれないが、後半の議論の土台となるように、「くもりガラス」を再構成する。
 「くもりガラス」において繰り返されているのは、
(A)決して心の中をのぞくことができない他者という存在を、
(B)美しく思い、そのような他者に惹かれる
 というような、灯織たちのあり方である。
 これはストレートな解釈なので、説明することはかえって無粋に映るかもしれないが、一度コミュ自体に立ち返ってこれを確認しよう。

 まず(A)について確認しよう。このコミュには戸や窓など、内と外を遮るものが繰り返し登場する。そのなかでも最も印象的なものは、タイトルにもあるくもりガラスのモチーフだろう。これはもちろん、他者と<私>を隔てるものの暗喩だと理解できる。

オープニング「雨粒のインク」より。このコミュは「戸」を「閉める」場面からはじまる
第1話「食パンとベーコン」より。他者と隔てられていることを確認する灯織
第3話「ひんやりと星の匙」より

 そして、そのような隔てられた存在である他者を美しく思い、それに惹かれる経験を「くもりガラス」は表現している(B)。

第5話「思考を煮詰めたような味」より

 灯織がくもりガラスの向こう側を見ることを断る場面は、最も印象的な場面の1つだろう。

第6話「くもりガラスの銀曜日」より
同上

3. なぜ(灯織たち・私たちは)他者を気にかけるのか?

 ここまで確認したように「くもりガラス」では、根本的に隔てられた存在である他者に惹かれ、それを愛おしく思う感性が貫かれている。
 このような、根本的に隔てられた存在としての他者を描く作品は、数えきれないほど多く存在しているため、このテーマ自体は特別とは言えないだろう。
 しかし「くもりガラス」は、このテーマを特別な仕方で描いている
 これを示すためにまず、なぜ灯織たちは他者を気にかけるのか、という点について考える。

 「くもりガラス」に描かれる灯織たちの経験は、典型的な美的経験である(あるいは、それにとても似ている)。
 「美的経験」とは、例えば次のような経験である(これらは美的経験のごく一部である。美的経験を特徴づける試みには300年近い歴史があるが、いまだ完全な定義はないようだ)。
・夕日や夜景を見てきれいだと思う
・日常の見慣れた風景が、あたかも初めて見たかのように感じられる
・何気ないいつもの街の風景が、まるで映画のワンシーンかのように、特別に感じられる
 くもりガラスの景色を、文字通りの意味で(非比喩的な意味で)きれいだと思うという経験も、美的経験に数えていいだろう。

 これらの美的経験は、どのように特徴づけられるだろうか。
 ここでは、美的経験に対するベンス・ナナイの特徴づけを参照する。

 ナナイ(2018)によれば、美的経験を特徴づけるには、そのときに発揮されている注意のあり方に着目するのがよい。
 ナナイ(2016)は注意のあり方を次の4つに分類する(p. 24)。

(i)対象に関しては分散しており、かつ性質に関しては焦点化された注意
(ii)対象に関しては分散しており、かつ性質に関しても分散した注意
(iii)対象に関しては焦点化され、かつ性質に関しても焦点化された注意
(iv)対象に関しては焦点化され、かつ性質に関しては分散した注意

 ナナイ(2016)自身による例を参照しながら、それぞれ説明しよう。
(i)は、例えば赤の靴下と青の靴下を分類する作業において発揮される注意である。このとき私たちの注意は様々な靴下(対象)に向けられている(分散している)が、性質に関しては色に固定(焦点化)されている。
(ii)は、例えば病院の待合室で、読む本を忘れてしまったので特に何もすることがなく、ぼーっと待っているときの注意のあり方である。このとき、注意の対象も性質も限定されていない。
(iii)は、特定の対象の、特定の性質に向けられている注意である。日常における、知覚を頼りにした行動の多くはこの注意を前提とするらしい。
(iv)が、ナナイ曰く、美的経験を特徴づける「美的注意」である(ただし、これは「典型的な」美的経験を「特徴づける」だけであって、全ての美的経験を特徴づけるわけではなく、また美的経験の必要条件や十分条件になるとまでは主張していない、とナナイは断っている(pp. 27-28))。

 例えば、美術館で絵画を絵画として見るとき、私たちは(iv)の注意を発揮することがあるように思われる。私たちの注意は対象(その絵画)に固定されているが、性質に関しては限定されておらず、注意はその絵画が持つさまざまな性質(表面の色、形、画材、画法、描かれているもの、描かれているものがもつ様々な性質など)に分散しているように思われる。
 ナナイ(2016)によれば、ロシア・フォルマリズムにおける「異化」効果なども、この注意と結び付けて理解することができる(pp. 34-35)。「異化」とは馴染みのある[familiar]ものを、馴染みのないもの[unfamiliar]として出現させる効果である。
 シクロフスキー(1925/1983)は異化効果を次のように説明する。
 私たちの知覚は、日常生活の繰り返し中で、いわば「自動化」してしまう。初めのうちは日常の景色は生き生きとしていたが、知覚が自動化されると、その新鮮さは失われる。知覚の自動化は生活における様々な感覚を蝕んでいき、「事物、衣服、家具、妻、そして戦争の恐怖を滅ぼしてしまう」のである(p.15)。
 シクロフスキーにとって、いわゆる「芸術」とは、そのような自動化された知覚を停止し、「知覚のプロセスを長引かせる」ことによって、新鮮な世界を取り戻すための手段である(p.16)。
 「知覚のプロセスを長引かせる」とは、ナナイ風に言えば、「対象に関しては注意を焦点化させ、性質に関しては分散させる」ということだろう。日常的な関心のもとである対象に触れるとき、私たちは(注意のリソースを節約するために)その対象を利用するために必要な、最低限の性質にしか注意を向けないだろう。これがシクロフスキーのいう「知覚の自動化」であり、いま取り上げているタイプの美的経験とは正反対である。

 私たちが他者を他者として認め、向かい合うとき、私たちの注意は美的注意(iv)になりそうではないだろうか。原理上決して馴染むことのできない他者という対象に向き合うとき、私たちの注意はその人(対象)に焦点化されるが、性質に関しては分散するはずだ。
 これらの点を踏まえて、「くもりガラス」を見直してみよう。
 灯織たちは、2つの美的経験をしている。
 くもりガラスの景色(文字通りの意味で)に対する美的経験と、他者(くもりガラスの景色の比喩的な意味)に対する美的経験である。

 「くもりガラス」は、他者に対する美的経験を、物理的な風景に対する美的経験に重ねて描いているのである。
 他者の心を決してのぞくことができないことは、寂しいことのように思われるかもしれないが、「くもりガラス」ではそのような他者を、景色に対する美的経験と重ねて描くことで、ポジティブに受け止めているのだ。
 同様のことは、次の灯織のセリフにおいて、他者(窓から入ってくる光)が希望の源になっている点にも見出される。

第5話「思考を煮詰めたような味」より


 そしてまた私たちも同様に、彼女たちに対して美的に(つまり他者として)向き合っているかもしれない。ウォルトン(2015/1970)は、作品がどのカテゴリーに分類されるかは、その作品の鑑賞に重要な影響を及ぼすと指摘した。
 シャニマスは「ソーシャルゲーム」というカテゴリーに分類され、かつ灯織たちは「キャラクター」・「アイドル」というカテゴリーに分類される。
 そのようなキャラクターは通常、属性・性質として「消費」されがちである。つまり、彼女らを他者として、多様な性質を持つものとして受け止めるのではなく、彼女らが持つ性質の一部にのみ注意が集中しがちになる。
 しかし、シャニマスは、彼女たちが私たちにとって「他者」となるように、彼女たちを描いてくれる。あえて「ソーシャルゲーム」の「キャラクター」であり「アイドル」である彼女たちを、通常の仕方とは正反対な「他者」として描くことで、シャニマスは私たちに強烈な印象を与えるのだ。


 最後に、以上のようなシャニマスの特性がもっともよく表れているセリフの1つを別のコミュから引用して、記事を閉じる。

「ストーリー・ストーリー」エンディング「家の物語の話」より

参考文献

・Nanay, B. (2016). Aesthetics as Philosophy of Perception. Oxford, the United Kingdom: Oxford University Press.
なお、記事中で引用した部分は、https://philpapers.org/rec/NANAA-2からアクセスすることもできる。
・Nanay, B. (2018). The Aesthetic Experience of Artworks and Everyday Scenes, The Monist, 101(1), 71–82, https://doi.org/10.1093/monist/onx037 
・シクロフスキー, V. (1983). 散文の理論(水野忠夫訳). 文京区, 日本: せりか書房. (原著は 1925 年出版)
・ウォルトン, K(2015). 芸術のカテゴリー(森功次訳). 電子出版物. https://note.com/morinorihide/n/ned715fd23434 (2023/12/19アクセス). (原論文は、1970年出版 https://www.jstor.org/stable/2183933


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