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やらなくていいことをしない、で行き着いたもの

昨日、NHKで福岡正信の足跡とご家族のドキュメンタリー「ハッピーヒル」をみた。
その中で一際私の心に残ったのは、
「やらなくていいことをしない選択をしてここに行き着いた、」
(少し違っていたかもしれないけど・・・)
という意味の言葉。
それ、音楽プロセス体験も同じかもしれない。

福岡正信さんのことを知らないかもしれないから少し説明するね。
耕さない、肥料もやらない、雑草と一緒に野菜や果樹を育てる自然農を、近代において、はじめに世に問うた人で、たくさんのタネを泥団子に仕込んで砂漠に放り投げてあとは自然にまかす方法は、世界的に話題になったそう。世の中がどんどん便利になって、新しい化学肥料や農機具がどんどん農家に入ってきた時代、それとは全く逆の方向へ踏み出した人。

泥団子の種や、不耕起の田んぼや畑、気を衒ったかに思われないでもない。
人によってはその目に奇異に映っただろうと思う。
いや、私もどこか宗教じみた匂いがして、正直若い頃はすこし敬遠していたかもしれない。

今、自分で自然農をやってみて
・・と言っても職業ではなく、実家の耕作放棄地の再生をいかに楽に、そして、理にかなった方法で、と考えて行き着いたものだけれども、
そう、自分で自然農をやってみて、確かに土は変わってくるし、気長に待てみて、それなり野菜が育ち始めてきたので、今は不耕起で野菜などが作れることを疑ってはいない。その味の良さ、姿の美しさから、とても筋の通った何かを見せられている気がする。

農業において
「やらなくていいことをしない」。

虫を殺したり、耕したり、水をやったり、草を取り除いたり・・
農業の基本だと思っていたことが実は枝葉の方だった。
それを「やらなくていいこと」
と見極めた言葉。

思ったのだ。
音楽を人の中で豊かにしていくのに
「やらなくていいことをしない」

多分音楽プロセス体験が体系化していく過程で
同じような局面があった気がする。

泥団子が一見気を衒っているように見えるように
きっと
音楽を動線でやりとりするということも
人によっては「なんでわざわざ描かなければいけないの?」

そんな枝葉のようなこと・・と思われるだろう。

utena drawing・・音楽プロセス体験もまた
余計なアクションに反応しないことで、
本質的な感覚と音楽とがであっていける。

何か、共通している、何かがあるんだろうな。
肉体と生命とがあったとして、
一般的に肉体から生命を辿るのに対して
生命から肉体へ辿る、というような。
うまく言葉になっているかわからないけれど。




愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!