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トントラワルドの物語


 コーヒーをひと口飲んで皿に戻し、窓の外を眺めていたら思い出したことがある。遠い昔、 私がまだ小学生だった頃に読んだ、『ばらいろの童話集』のこと。〈ラング世界童話全集〉の第二巻だった。この本に収録されていた、「トントラワルドの物語」というエストニアの民話が、成人してからもずっと忘れられなかった。
 編著者のアンドルー・ラングは、オックスフォード大学では『指輪物語』のJ・R・R・トールキンや、『ナルニア国物語』のC・S・ルイスの先輩にあたり、民俗学者にして作家であり、また詩人でもあった。
 ある時、私は屋根裏の物置で埃まみれになっていた本を見つけ出したが、それだけでは満足できず、インターネットの書店で洋書を注文した。Andrew Langで検索して……と、たぶんこの『The RED FAIRY BOOK』だろう。
 ところが、送られてきた本の目次には、「トントラワルドの物語」が見当たらない。それならと『The CRIMSON FAIRY BOOK』を注文したが、こちらの目次にも見当たらない。続けてPINK, ORANGEと、暖色系のタイトルばかりを選んで注文してみたが、 どれにも収録されていない。こうなりゃ面倒だ。終いには残りの巻を全て一度に注文してしまった。やれやれ、出費が……。
 VIOLETの巻の目次を探していた時、あった! 「A Tale of the Tontlawald」 しかし英語が得意なわけでもない私は、今のところは古い邦訳を読み返しただけだ。

《広大な荒地の奥に、人々にとても恐れられている、トントラワルドと呼ばれる森がある。いつもまま母に苛められていたエルザは、苺を摘みに行って荒地に迷い込み、そこでキシカという娘と出会う。
 キシカはエルザをトントラワルドの森に連れて行き、森の女主人に会わせた後、海を見たことがなかったエルザに、魔法のような方法を使って海を見せる。
 トントラワルドの女主人は、髭の老人にエルザを象った土人形を作らせる。その胸に穴を開けて黒い蛇を入れ、エルザの血の付いた金のピンを突き刺すと、土人形はエルザそっくりの人間になり、まま母のもとで身代わりとなって暮らす。
 一方エルザは、トントラワルドの住人達と、 楽しい、夢のような生活をして過ごす。金のニワトリ。大きな黒猫。食べてはならない十三番目の料理。 歳を取らないキシカ。けれどもエルザは成長してゆく。
 とうとうやってきたお別れの日。鳥になって空を飛んで行くエルザは、一本の矢に射抜かれて森の中に落ちる。すると馬に乗った王子様がやって来て、森でエルザに会う夢を何度も見たと言う。
 やがてお妃になったエルザは、歳を取ってからこの話を皆に語った。》

 私は海辺で育ったから、 海の見えない国や、海を知らない少女のことを想像した。背丈よりも長い髭の老人や、土人形と黒い蛇も印象的だった。 不思議の国トントラワルド、エルザ、そしてキシカという名前の響きにも惹かれたのだろう。少年少女向けの比較的平易な英語なんだろうから、そろそろ読んでみなくちゃなあ……。 そうだ、こんどネットの何処かで、kisikaをハンドルネームにしようかな。
 漫然と空を見ていた視線を駅前広場に戻す。今日も人々は噴水の前を歩いて行く。鳩がいるあの街路樹はまるでお話の木みたいだな。むかしむかし、あるところに……。
 再び飲んだコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。



*2008年に刊行された新訳では「トントラヴァルドの物語」
 東京創元社 刊  監修:西村醇子 (現在絶版のため高価になっている) 


  


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