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商業ライティングと物書きのプライドの折り合いのつけ方~「求められる情報の提供」と「読んでいて楽しい」は両立できる?~

みなさんこんにちは、堀詩です!

まだ上着は必要ですが徐々に春めいてきましたね🌸梅の花がふんわりと街にピンクを添えているのを見ると「また1年が始まるんだなぁ」と前向きな気持ちになります。

2月の頭に『詩の小箱』という自身のホームページを開設しました。

大学2年生の春、大学のホームページで学生記者の募集を知り、初めて記事を書いたのが昨年6月。自分の言葉に金銭的価値が生まれることに驚きと喜びと誇りを感じ、将来ライターとして生きていきたいと思うようになりました。

さて、ホームページ開設から1か月が経った今、大きな悩み事が現れたのです…今回の記事では、ライター業に足を突っ込んだ私の葛藤を書くことにします。書くことに興味関心のある皆さん、私の悩みにお付き合いいただければと思います。


「求められる情報の提供」とは

ライター、特にwebライター初心者が最初に直面する壁は「SEO対策」を凝らした「PV数稼ぎ」だと思います。というか私が現在進行形で、この壁をどうにか越えられないものかと頭を捻らせています。

まだ始めたばかりだから…という言い訳が使えるのも今のうちだけ。なかなか伸びないPV数に焦ります。ユーザーは何を求めているのか…今まで大学からの案件でしか記事を書いたことがなく、しかも自分色を全面に打ち出した記事しか書くことができない私は、いざ自分から客観的な情報発信をするとなると一気にわからなくなってしまうのです。

SEO対策の必要性

大前提として、インターネットを使う人の目的は主に情報検索です。「ユーザーが知りたいことに一番関連性の高い近いアンサーを返すこと」これこそwebライティングの基本であり最も肝心な理念です。

ユーザーにとっての利便性を高めるためは

  • わかりやすい記事のタイトル設定

  • 充実したコンテンツ

  • 信頼できる情報源

  • 内容の網羅性

  • 画面の操作性

以上の5点が大きな割合を占めるのではないでしょうか。
ユーザーにとっての有益な情報提供者であるwebライターは、SEO対策を凝らしてユーザーの利便性を保証した上で、クエスチョンに対する的確なアンサーを提示する必要があります。

近年さらに注目を集めるようになったSEOですが、ライターの基礎中の基礎として重きを置かれることには以上のような理由があるのです。

webライターは単なる情報提供者?

ユーザーの知りたい情報に対して的確なアンサーを返す…
このことに特化したwebライターはさながら有能執事のよう。

無駄のない情報提供、的確な需要判断、トレンドの察知能力。
その全てを兼ね備えた有能執事はそう何人もいるものではありません。

ここで私は思うのです。「じゃあ、ライターって情報を提供するだけの存在なの?」

この問いに対しては二通りの答えが考えられます。
「そうです。ライターはユーザーにとっての必要不可欠な情報源です」
「いいえ。ユーザーに読み物として楽しんでもらう文章を提供することも大切です」

さて、皆さんはどちらの考えをお持ちでしょうか。どちらでもいいんです、正解はないんです。ただ私は後者の考えを尊重したいのです。個性を殺したくないのです。

客観的な情報提供 VS ライター自身の個性

先ほど述べたようにSEO対策をして、信頼性・専門性・網羅性を満たす情報を提供するためにはライター自身の経験と客観的な目線が必要です。

そしてこの点に関して私が何より大事だと思うのはずばり文体です。
自分がユーザー側で情報検索をする時、サイトがくだけた文体で書かれていたり、記号や絵文字が多用されていると、このサイトは信頼できないと判断してしまうからです。

また例えばジャンルを決めず東京駅周辺のグルメを探したいとき、検索に以下のタイトルが出てきたとします。

  1. 東京駅周辺おすすめグルメトップ10

  2. 東京駅周辺の飲食店、10店選んでみました。

私ならまずは上を開いた後、下をクリックするか無視するのではないかと思います。1番は完全に「よく見るタイトル」であり、ユーザーに需要が高いからこそ「よく見られるようになったタイトル」でもあります。しかし2番は少し特殊です。読点や句読点が使われていたり、話し言葉のようであったり、ライター自身の個性や自我が垣間見えます。

上の章とも絡みますが、客観的な情報提供者に徹するのであれば、極力裏側は見えない方が良い。生産者の顔が見える方が信頼度の上がる野菜と違って、文章はライター側の自我が見えた瞬間、私的な観点に基づく信頼度に欠けたものだと判断されてしまうのです。

ニュートラルで無個性であればあるほど情報提供が目的のwebライティングとして優秀だと言える所以はここにあります。

「読んでいて楽しい」と両立するには

私の考えでは「求められた情報をサーブする機械的なwebライター」も「個性を活かして柔軟で面白い文章を書くwebライター」もどちらも存在すべきであり、1人のライターの中にその2つの顔があったって良いと思います。どちらの顔を使うのかを、案件や執筆の目的に沿って変化させることができたらそれで十分だと。

エッセイとブログ、webライティングの境界線


エッセイやブログはそれこそライターが自我を出せる自由な空間だと思います。言葉の数々が制限なく流れ出しても、誰も咎める人のいない場所です。だから私は自分のホームページを「詩の小箱--言葉の遊び場」と名付けました。

webライティングとなると話は違ってきます。好き勝手書いた言葉の羅列は誰にとっても得にならない駄文の烙印を押されます。

これは今このように文章を書きながら自分にも言い聞かせていることなのですが、私はエッセイにしろwebライティングにしろ「書く」という行為は共通しているけれど、その書き方や書く目的は全く違うことを理解しなければいけない。

だからと言って物書きとしてのプライドと意地を捨てればよいというものでもありません。webライティングに取り組む際には、それらを捨てるのではなく今は出番ではないと割り切る姿勢が求められるのです。

AIの言葉と人間の言葉

インターネットが情報提供の場であるとしたら、その意味でAIは非常に優秀なwebライターになり得ます。ChatGPTに必要な情報を打ち込み記事を作成させることだってできます。記事のタイトルや文体もニュートラルで、ユーザーにとってもわかりやすい記事になるでしょう。

しかし、私たちは言葉を操る生き物である以前に、1人1人個性を持つ存在です。スポーツに秀でた人間、音楽に秀でた人間、口が達者な人間。たまたま私は、思いを文字にすることが好きな人間でした。

大体客観的な情報提供がどれほど難しいことか。「東京駅周辺おすすめグルメ10選」も誰かが作為的に選出したものを、あたかも主観を排除した客観的な情報として見えるように書いているだけです。

それでも尚、私たちは無個性な記事を求めるのだから、その求めに応じるのがプロのwebライターだと考えます。私はまだ「せっかく文章を書くのだから面白い言葉遣いや書き方をして自分の個性を出したいし、そうやって書いた文章が誰かに気に入ってもらえたら嬉しいな」という思いが残っており、自分が思うプロwebライターになるには、まだまだ甘いと自分を叱る日々です。

商業ライティングと物書きのプライドの折り合いのつけ方

商業ライティングと物書きのプライドは果たしてどう折り合いをつけていくべきか。私の答えは「二種類のプライドを持つ」に集約されます。二種類のプライドとは言葉巧みに鮮やかな文章をひねり出す物書きとしての誇り、そしてユーザーの求めに的確に答えることができるプロの情報提供者としての誇りを指します。

そもそも「書く」という行為を二分化して考えることに反対意見を持つ方もいらっしゃるかもしれません。ですが、現段階で私が自分の中で折り合いをつけるために考えた方法は上記の通りです。この先ライター業を続けていく中でもっと別の解を見つけたり、たくさんの方々と出会う中で価値観が変わったりすることもあると思いますが、今はこの考えに落ち着いています。

さいごに

ここまで読んでいただきありがとうございました!つらつらと書いてしまいましたが結局はたくさん書いて、経験積んで、とにかく体当たりしながら成長することが一番ですね。

思考することは好きですが、それをずーっと引きずって何も動かないことは私の生き方に反するので、今後も楽しく真面目に誠実に、書くことと向き合っていきたいです。コメントなどで皆さんの考えも教えていただけると幸いです😊

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