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「多様性」はどうしてこんなに憎いのか。言葉が創り出す枠組みと新たな排除の構図について考える

「郷に入っては郷に従え」という言葉があります。

もし、「郷」に元々いた人々が違う世界から来た人々にこの言葉を告げたとしたら、それはきっと外部文化の否定と見なされ、非常に強い暴力性のある言葉に聞こえますよね。

では、違う世界から来た人々が同じく違う世界から来た人々にそう告げたらどうでしょうか。

「ここは日本だ。自国の文化が押し通せないことに文句を言うな。『When in Rome, do as the Romans do.』だろう?」

例えば、ここを日本だとする。あなたの祖先は江戸時代の武士で、どこまで遡っても生粋の日本人だとします。(そんなことはほとんど絶対にありえないのだけど)

日本人のあなた「日本に住むのなら日本の文化に従え!」と外国人に言ったら__

冒頭で述べたように、それは相手の文化を否定する言葉の暴力になり得る。

そんな言葉をとっかかりに、今日は私が上手く消化することができないこの言葉「多様性」について考えてみる、そんな一日にしたいと思います。


「郷に入っては郷に従え」に賛成?反対?

皆さんはこのことわざについてどう思いますか?

そもそも、多様性・文化の衝突を巡る議題に持ち出すのは的外れなことわざだと言う考えもあるでしょう。

でも、今、あえて、持ち出してみたいのです。

賛成の立場から

私は賛成です。
さらに特に強調したい部分は、「嫌々従うのではなくて、理解した上で(場合によっては半ば諦めの気持ちを持って)従う」べきであるということ。

これ、後に話す、私が大嫌いな言葉「多様性」を実現するための最低条件だと考えています。(大嫌いだけど、実現しなければ(いけないよね)と思っている)

嫌々その土地の文化に従って無理やり自分の考えを押さえつけているのと、嫌だけど仕方がないから受け入れて、まぁ自分は今この場所で生きているんだからこの場所の文化に順応してやるかという態度は、全然違います。結果的に目に見える行動は同じだとしても、「多様性」を語る上で軽視してはいけないのは、その行動に至るまでの心持ちや態度です。

客観的に物事を判断する時、感情は無駄な要素だと扱われがちで、実際そうだと私も思います。でも、この議論において根本的に改革が必要な部分もまた感情なのだとは思いませんか。


綺麗ごとだと、理想論だと言われて当然。だってそうだもん。

でも、私が今から主張する「多様性」の実現には、この立場が前提になる必要があるので、もうしばらくお付き合いいただけると幸いです。

反対の立場から

私自身は賛成の立場を取っていますが、もちろん反対の立場もあります。


ほら、また「もちろん~もあります」って、あたかも反対サイドの意見も理解していますよムーブをする私のことが嫌いだと言う人もいる。

そのような批判はシンプルに刺さって痛いので、一旦明言します。
私は自分と反対の考えを持った人がいることを「理解」していますが、それでも尚私自身の考えは彼らとは別で、変える気もないです。

この「理解」しているよ、という態度が癪なんだろうなと「理解」できますが、私はこういう人間なんだと「理解」してください。

反対サイドの人間からしたら、コイツは私の味方になってくれそうなのにそういうわけでもなくて結局何考えてるか分からなくて不信感!だと思います。が!!!これはまた別のお話、今度お気持ち長文noteでも公開して鬱憤を晴らさせてください!!


話を戻します。
「郷に入っては郷に従え」ということわざに反対の人。理由と共に教えてください。教えてください、ってちょっと強いな。うーん、どうして反対するのかその理由が気になる、純粋に。

私はもう賛成脳に凝り固まってしまったので、このことわざのどこが問題か気が付けなくなっています。

「郷に従うことで自国文化を押さえつけなければいけなくなる」
「文化の暴力。マイノリティの否定」

私はもうこれ以上の反対意見を思いつくことができませんでした。説得させられてみたい、新たな思考を始めたい、のでコメントや投稿で皆様の考えをお聞かせいただけたら嬉しいです。

多様性のグロさ

ライターとしてご依頼をいただく時、「多様性」をキーワードに文章を構築してほしいと依頼されることが多くあります。

大学でも特に1,2年生次は「多様性」について学ぶ講義が多い。

そうやって多様性に触れていくうちに__いや、違うな。メディアが、政治が、世間が、多様性をキーワードに設定し始めたいつかの時代から、絶対に飲み込みたくないブヨブヨの豚の脂身を無理やり咀嚼させられているように、多様性についてむかむかと気持ち悪い感覚を抱いていました。

そして、その気持ち悪さがようやく言語化できるようになってきました。

多様性ファシズム

第一に、「多様性」ってドデカい暴力性に満ちた言葉です。

言葉というものは、ある出来事ある事象について取り上げなければいけなくなった時に便宜的に用いられるものです。そしてある出来事ある事象がマイノリティだった場合に特によく。

例えば「リア充」。これも大学で学んだことですが、

リアルに充実した人<リアルに充実していない人

このマイノリティ・マジョリティの構図ができたから、マイノリティ側に「リア充」という名がつけられた。

あるいは、女医とか女優。わざわざ男医と呼ぶ人はいないだろうし、女性のお医者様は少ないので自ずと女医という言葉が誕生したのでしょう。

この理論で考えると「多様性」が政治的な意味合いを持つようになったのは、グローバル化が進展するにつれ、ある地域・社会において土着の文化ではない文化を持つ人々が増え、そして確かに増えはしたけれどやはり元からいた人々の数と比較したらマイノリティである、という状況が以前に増して各地で顕著になったことが理由だと考えられます。

年齢・国籍・性別・障害、全部関係なく「あなたはあなた」というように認めていきましょうよ、そんな無鉄砲な夢物語の全責任を「多様性」という言葉に植え付けたのです。

以前東京外国語大学総合国際学研究院・加藤雄二教授にインタビューをさせていただいたことがあります。

その時にお話されていたことが非常に心に残っているのです。

「「多様性を認めない」という立場を排除したら、それは真の多様性の実現と言えるでしょうか。何かを排除すればそれは二重、三重の排他的な構造を生み出してしまうことになります」

その通りじゃないですか。「多様性」という言葉があるが故に、不確定で変化自在な自由分子に「多様性」という名前をつけたが故に、その不確定な物体は言葉という枠に囚われ、枠が、檻ができたということは新たなる内部・外部の排除の構図を生み出してしまったということになります。

朝井リョウ『正欲』がその図を簡潔に表しているのではないかと思います。「多様性」という檻があるから、その外にいる人はまた孤独に押しやられてしまうんです。(今回は特に文化や宗教の多様性について話すので、『正欲』とは少し論点がズレてしまいますが💦)

商標化

私たちは多様性の商標化にも気を付けなければいけません。

最近「多様性」を前面に押し出す企業や教育機関、ビジネスがどんどんと世に出てきています。

そのこと自体が悪いことだとは思いません。

でも、「多様性」が記号化してはいないでしょうか?

形式上の「多様性」になっていないでしょうか?


ただ聞こえが良いように、他社との違いをアピールするためだけにこの言葉が使われているのだとしたら。

私は日本社会に身を置く人間である故に、諸外国で多様性・diversityがどのように扱われているのかまでわかりません。ですが、少なくとも日本において「多様性」が良いように使われていることに危機感を持ちたいのです。

多文化・多様性の実現は可能か

可能です。但し、共感と諦めがあれば。

できないことはできない、できることはやる

「郷に入っては郷に従え」が前提にある上で、では私たちはどうしたらいいのという問いに対しての私の答えです。

土葬か火葬か

例えば一番想像しやすいのは土葬か火葬かという議論です。

死者の埋葬は古くから文化や伝統に基づく慣習があり、急に変えることは気持ち的に難しいと思います。極端な話、死者を食べる習慣のある民族がそのような習慣のない民族に「死者を食べろ」と強要しても、絶対に大きな抵抗が生まれるように。

現代日本では土葬から火葬が主流になり、衛生面や場所的にも土葬はほぼ不可能です。しかし土葬文化圏の人々からしたら、我々は伝統的にそうやって死者を弔ってきたのに何故それが許されない?!と不思議に思うことだってあると思います。

でも「土葬ができない」理由として、

・国土面積が狭い
→土葬をすることで、生きている人間が使うことができる土地が減る
・衛生面
→感染症リスクがあがる

ということが考えられ、反対派の人が頭ごなしに「土葬は日本の文化圏にはないから禁止」だと否定しているわけではないことがわかります。

禁止、否定の裏の理由が(嫌々ながらも)納得はできる場合、「郷に入っては郷に従え」精神で譲ることが必要になるのではないでしょうか。

歩み寄ること。譲ること。

多文化・多様性の実現は歩み寄ること、譲ることの繰り返しです。

土葬を禁止する理由はごもっともだとしても、ヒンドゥー教徒に牛を食べるように強要することは絶対におかしい。(鶏や豚という生き物が存在せず輸入もしていないため牛しか食べることができない!という社会なら話は変わってきますが)

国ごとに伝統や文化、社会規範や常識が違うのは当たり前です。

「違う」から、どうする?

私が触れてきた多様性に関する授業やメディアでは「違いを認め合おう」「理解し合おう」という言葉がよく使われていました。

でも、もうそんな悠長なことを言っていられる時代ではない。


「違い」を理解した上で、絶対に譲れない線を引く。


真正面から多様性に向き合う時、「認め合う」「理解し合う」という言葉ではもう甘いのです。線を引くというのは、決して拒絶の意味ではありません。「あなたたちの文化圏ではそうなのね。でも、ここは私たちがもとより住んでいた場所で、私たちの文化圏ではこうだからこうしてね。」という意思表明をはっきりとするということです。

受け入れる側の寛容、受け入れられる側の妥協、この両者が互いの思いやりが感じられる程度の距離を保つための線です。

寛容・不寛容についての線引き

問題はどこに線引きをするか。

同じ文化圏で育った人間でも価値観や寛容の度合いは異なります。それ故国民の世論としてこの線引きを定めることは不可能に近いと思います。

この点、私は少数コミュニティの役割が大きいと考えています。国より県、県より市町村、市町村より自治体、自治体より隣人…当人同時、当事者同士で明確な線を定め合うことで多文化多様性は少しずつ実現していくのではないかと思います。

さいごに

長々と書いてしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

日頃感じていることをやっと言葉にできたなと感じています。読み返してみると突っ込みどころ満載だし、もっと考えられるだろと感じる部分も多々ありますが、今の力で言えることはきちんと言えたかな。

多様性を巡る問いについては日々思考がアップデートされるので、その都度こうやって書き残していけたらと思います。

感想、ご意見等お待ちしております。


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