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インクルーシブ教育で教員残業なしなんてあるのか?という話

どんな教育にもメリットとデメリットがある。

 障害のある生徒も、ない生徒も共に学ぶ「インクルーシブ教育」が最近、絶賛されています。

 私自身、インクルーシブ教育実践校に勤務していますが、正直、この手の報道や発信を見るといつも複雑な気持ちになります。

 まず、支援教育の立場から考えると、「個に合わせた」教育にもメリットがあり、インクルーシブ教育が対応できないこともたくさんあるということ、また、インクルーシブ教育そのものの難しさが十分理解されていないことなどがあります。

 少なくとも「どんな教育もメリットだけではない」ことは主張したいと思っています。

日本のマスコミがいうような「インクルーシブ教育」は海外ではそれほど実施されていない

 これは私は何度も書いていますが、日本のマスコミがよく強調する「インクルーシブ教育」というのは知的障害生徒や重度の重複障害生徒が中学校・高校を含む通常の学校の授業に参加することを指します。

 しかし、私が過去にNoteで紹介しましたが、実際に私自身が英語を駆使して海外の教育関係者、福祉関係者にインタビューして回っても、そのような教育をしている人には出会えませんでした。

 なぜかというと、日本は基本、学力度外視で一定年令になったら進級する「学齢主義」を取っているのに対し、多くの国では学力に応じた進級をする「習熟主義」を取っているので、障害があろうがなかろうが、学力がなかったら小学校でも落第するのです。このため、「小学校ならともかく、学力のない生徒が高校の通常授業を受けることはない」というのが海外の多くの教育関係者から聞いた話でした。

 ちなみに最近ではアメリカで↓のようなニュースが報道されていました。ローカルニュースからの転載ですみません。私自身はこのニュースを全国ネットであるCNNニュースで知ったのですが、アメリカのとある州で「小学3年生の時の学力テストで一定の点数が取れない生徒は進級できない」という方針を取ったことが議論になっています。(ちなみにヨーロッパではよく聞きますが、英語以外があまりできないのできちんとしたソースからの引用ができなくてすみません)

 身体障害や視聴覚障害生徒が学力を身につけて高校や大学に進学するという「インクルーシブ教育」が広まっていたとしても、学力がなくても進級・進学すべきか、というのは多くの国ではまだまだ議論の余地があり、「0点しかとれなくても15歳になったら高校に入学できるべき」という意味での「インクルーシブ教育」はそれほど多くの国で行われているわけではないのです。

 「障害があるからできなくてもいい」ということではなく、「障害があってもなくてもできなかったら平等に進級できない」、これも一つの「平等」です。

教員のワタシは働き方改革にはそれほどこだわっていない

 さて、以前から教員の働き方改革だの部活顧問拒否問題だの特給法改正だのと騒がしかったのは、名古屋大学だったんですよね。で、名古屋大学に関して言うと、それ以前から「ブラック校則」問題で騒がれ「現場には現場の事情ってものがあるんだ」という反発こそワタシはしていましたが、働き方には

 全く

 興味も意見もありませんでした。

 ちなみにワタシは運動部の主顧問です。「部活は必要悪」だと思っているので、顧問拒否をするつもりはまったくございません。

 特給法について。財源が同じであれば、むしろ育児や介護で「時短」を取る、教員の中で比較的立場の弱い人たちにとってマイナスになるので、賛同はいたしかねます。財務省がもっとお金出します、というのなら、「残業代払え」もいいでしょうが、そうでないのならば、「長く働いた人が得をするシステム」になるメリットはないと思いますね。

 なのですが、最近、この話題に東京大学が参入したと聞いて、「はあ?」と思っております。名古屋大学の時以上に驚きました。

なぜならこの先生、こういうことも主張されているからです。

つまり、いっていることを合わせると「インクルーシブ教育を推進するべきだが、教員は長時間勤務をするな」といっているわけです。

残業なしでインクルーシブ教育ができるシステムなのか?

 で、ですね、わたくし、ここのところ土日休日なく、毎日持ち帰り仕事をしております。睡眠時間も全然足りてません。メンタルもやられてます。

 ですがね、この仕事の大部分は「インクルーシブ教育」なんですよ。

 なぜか、通常の勤務の中で授業準備なんかできたとしても、せいぜい「生徒が全員定型発達だと仮定した場合」までが精一杯です。ちなみに部活があったり、分掌があったりして、それさえもできないことも普通です。

 ですが、

 発達障害や学習障害の生徒のために視覚支援や

 知的障害の生徒のためのルビふりや

 身体障害の生徒のための入力負担を軽くする教材の加工や

 視覚障害の生徒のための拡大教材や

 これらすべての生徒に配慮した評価の工夫や

 さらに個別の指導が必要な生徒の教材づくりや

 そうした生徒に対する特別課題…

 それをぜーーーーーーーーーーーーーーーんぶ時間内にやるのは無理です。というか、これだけでも無茶です。

 支援学校というのは、高校であれば、うちの自治体の場合、「障害の種類と程度に応じた10〜20人ひとクラス」です。(ちなみにうちの自治体では支援学校でも時間割があり、教科の授業を持たされますが、そうでない自治体もあります)仮に高等部の1年生から3年生まで複数クラスずつ持たされたとしても、同じ方向の授業で教材を同学年で共有するとすれば、3種類用意すればよく、教科の担当生徒も100人も持たないことが大半でしょう。

 ですが、日本でいうところのインクルーシブ教育というのは、知的障害も身体障害も視覚障害も発達障害も全部対応しながら定型発達の生徒もカバーしろ、という話で、1クラス40人、「このクラスは視覚障害のある子に配慮が必要なクラス」「このクラスは発達障害のある子に配慮が必要なクラス」と別々な用意が必要だったりします。しかも、「障害特性でどうしてもいろいろな動きや発声をしてしまう生徒」と「視覚・聴覚過敏のある生徒」が同じクラスにいる、というような、「どうやっても無理ゲー」なクラス編成も少なくありません。

 そこにきて「長時間勤務するな」といわれたら「どの口がいうとんねん!」と叫びたくなります。

研究者と現場との乖離をまず改善しませんか?

 ちなみにアメリカでの大学院時代、ワタシは教授によく現場に出していただきました。「行って、見てこい」というのです。ちなみに勧められたところは先進的な実験授業をしているような私立学校や大学の附属学校ではなく、むしろ「超やばい現場」でした。

 最初に行かされたのが、

 ニューヨークのハーレム地区の公立学校で夜間行われた教育委員会と保護者のパブリックミーティング

 でした。当時は怖くて、大学の男子学生に頼み込んで同伴してもらいました(たぶん、この経験があったから、Urban Educationに深入りし始めた時には恐怖心がなくなっていたのかもしれませんが…)。が、怒号が飛び交う「現場」を体験し、「教育とは綺麗事では済まない」ことを知ったのです。

 ですが、日本の研究者の多くは「現場」には出入りしません。そもそも、旧帝大系の教育学部の多くは「教員養成」と「教育学」を別のものとして扱っているため、「自分ごと」として教員の生活を見ることが希薄なんだと思います。

 結果が「インクルーシブ教育を推進しながら長時間勤務をするな」だとしたら、現場としては絶望感しかありません。

 こんなツィートをくださった方がおられました。

  こんなのを読んでいたら、涙がとまらないです…。こちらとしては、せめて自分の目の前の生徒のためにできることをしよう、その結果が長時間勤務なんです。

 まず、現場を見てくれませんか?現場を見ないで教員を語るの、本当にやめてほしいんです。

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