書けない日記20240516[2日目]
何も書けなくなりました。
本も記事も書けない、いやでもObsidianのデイリーノートへの日記や、Xへの短いポスト、ノートへのメモ書きは出来ています。何故だろう?
ここ1,2ヶ月ほどかなり鬱の調子が悪くて、考え事をしようにも思考がまとまらない事が多かったです。それがまだ尾を引いているのかもしれません。
書くことは、短文を連ねて書き続ける事でも可能ですが、僕の言う「書くこと」は全体の構成も意識的に操作して、文全体でメッセージを強調する事です。その意味では確かに書けなくなっているのかもしれません。
書く事のハードルを下げて、とにかく書ける事を脈略なく書き連ねてみているのがこの記事です。
昔に絵をよく描いていましたが、初めの頃の線を描き慣れていなかった事を思い出しました。あの頃は線描の仕方も、人の形を描くテクニックも全く知らず、ただ描きたいアニメキャラを見様見真似で模写していました。
この何も分からないけれど、ただ書きたいという気持ちにドライブされて書き続ける事は、とても絵を描き始めた時と酷似しています。
何かが分かっているから書くんじゃないのかもしれません。
ただただ何か書きたいから、何かを表現したいから、心の中の気持ちを形ある記号に変換したいから、そんな必死な切実な思いが、有益とか無益とかそんな馬鹿らしい価値観を捨てて、転んで痛い思いをしても何も言わず立ち上がって、震える指をもう一方の手でそっと抑えて、それでやっと何かを書いてしまう、やっとなんとか書けてしまう。
「初心忘るべからず」
色んな事を書いてきて、書けてきて、驕りがあったのかもしれません。
書けないのが普通で、むしろ書きたくても書けなくて辛くて悲しい人の方が多いのかもしれません。
近頃出版された『ライティングの哲学』や『自分の「声」で書く技術』などを見ても、「書けない」と悩む人は多いと思われます。
文章は書けて然るべきものでは無いのかもしれません。何を当たり前な事を…、と思われるかもしれませんね。人間は意識しないと勝手に出来る事のハードルを上げて、出来なくなった時に過剰に自分を責めて苦しくなります。うつ病を患ってからその事を痛いほど分かっていた筈なのに、また繰り返してしまいました。
ただただ、文章らしきものが書けていることに、思い描いたものから逸れていても、一応の意味が自分には分かるものが書けていることに感謝しています。
書く事を小さく続けてみます。
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