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出来ることしか出来ない

人間は生まれた環境が誰しも違います。双子と言えど、母の胎内から医者の手に渡る順番は違っています。

どう平等を叫ぼうとも、人間には何かしらの差異が発生するのは仕方のない事です。まずはその現実の原理を直視するところから、話を始めなければいけないと思います。

ここから始まる話は、努力とか主体性を無視する話ではありません。ただ、まず生まれた瞬間から平等でない現実に目を背けるのは、自体を混乱させてしまうだけなので、とにかくそこは見つめていかなければならない話だという事を、明らかにしたいのです。

人間は文化や社会をとても豊かにしてきましたが、それでも逃れられていないものが有ります。それは死ぬことです。生まれが有れば、死ぬに至るのは現在においての必定です。

死んでしまうのに、何故人間は苦しい生を生きなければならないのでしょうか。

僕が思うに、それは誰かから巡ってきた祝福を受けたからでしょう。私たちが今この世に生を受けたのは、直接の両親ではなくとも、どこかの遠い先祖が子孫を残したいと思ったからです。それは今の科学では性欲と呼称され、生物の本質は自分が生き抜く事と、子孫を多く残す事だと言われています。

人間は地球の生態系で一番繁栄している種族になっていますが、それでも宇宙から見れば蟻よりも小さい存在です。何かを解明しても、それが本当に正しい事なのかは未だ及びもつかないです。天動説・地動説に代表される様に、刻一刻と科学は正しいとされる事と、その反証を生み出しています。

僕は生物の本質がどうであれ、この世の本当に正しい事がどうれあれ、人間が自分の遙か先の子孫を寿ぐその祝福の在りように価値を置きたいと思うのです。

子孫を残して嬉しいという感情を、生物のシステマティックな側面としてしか見ないというのは、どうも僕には違和感が有ります。脈々と繋がってきた、この絶たれなかった血の一筋の奇跡に喜ぶ事に人間足る誇りを感じたいと思うのです。

今こうして僕がこんな悠長な事が書けているのは、全て環境のお陰です。それは重々承知しています。けれど、そこで闇雲に「自分が恵まれている事を自覚して、さっさと人の為世の為に役に立つ事をしろ」と自分を貶めて何か行動させるというのは違うと思うのです。

全ては自らの生まれには祝福が宿っている。それを認識する事から勇気や逆境から立ち上がろうとする力が湧いてくるのではないでしょうか。

自分を不当に下げて、痛めつけて奮い立たせるのには限界が有ると思います。そうではなく、誰かからの「祝福」を自分で途絶えさせず、また別の誰かに繋げること、それは近しくても遠い未来の他人でも構いません。

優しさに立脚し、優しさから立ち上がる力こそ、持続可能な生き方だと僕は思っています。

出来ない事に苦しめられ、そこから立ち上がろうとする時、自分をいたずらに傷つけない方が良いです。その痛みや怨嗟は、どこかに巡ってしまいまた別の誰かを傷つけてしまいます。

出来ることしか出来ない。そう書くと消極的に見えますが、出来ることをやっているのは少なくとも何かを前に進めています。何かを出来るだけ優しさに立脚した気持ちの有り様で進めていく、それこそが持続可能的な人間の力ではないでしょうか。

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