「僕」と「私」と「君」と「私たち」の距離。~「生は苦しくて、美しい」(夜に駆ける)~

「それでも生きている僕らは抱きしめることができる」("白昼夢")

バンド 夜に駆ける の、初の全国流通版となるミニアルバム「生は苦しくて、美しい」については、全インディーズファン待望の、という枕詞をつけて、その誕生についての快哉を叫びたい(主語がでかくて申し訳ない。)。

俺個人のことを言えば、シューゲイザーコンピレーション"Total Feedback 2020"に収録されていた「陽射しに照らされて Short ver.」の、爆音シューゲイザーの海に揺蕩うボーカルはしもとりおのマーブル模様のようなどろっとしたボーカルに、完全に持っていかれた、というのが出会いなわけであるが。

 その後の復活"Total Feedback"オンラインライブで、内山結愛(RAY)がパフォーマンスが始まった瞬間楽屋を飛び出した、という話も、同じく甲斐莉乃(RAY)が楽屋の缶ビールを持ち出して鑑賞していた、という話も、それぞれの感受性においてさもありなん、という話である。)

そして収録楽曲に関する細かな感想は別の機会や別の筆者に譲るとして、
夜に駆ける の楽曲世界、またはボーカルはしもとりおが書く歌詞世界には、掲題のとおり「僕」と「私」と「君」と「私たち」の距離感が存在しているように思う。

これは、前作「僕らいつか化石になる」所収の作品群に存在した、救われた「私」("54秒")、
または夜に出会った「あなた」が「わたし」を「正解にした」という"夜が来たら"、
優しすぎた「君」を救えなかった「私」("化石になろうよ")を超えて、
"18時"、または"やめるときも、すこやかなるときも"に象徴される、
「君」と「私」が、音楽の中で出会い、又は生き、「私たち」として「夜に駆ける」「奇跡」に至る物語なのだ。と思う。

つまり。
この物語には「その存在によって「私」を救った「君」」
……たぶん"化石になろうよ"で、「世界の終わりを二人で観ようよ」と呼びかけた「君」と、
新たに「夜に駆ける」の音楽で出会った、"18時"で、「君に会いに行ける」と呼びかけた、(おそらく単複同形の)「君」が存在しているのだ。

この物語は、または歌は。
歌い手が「救われた誰かを救えなかった」過去と別れを告げて、新しく出会った「君」を「私たち」として、ともに「生きよう」と語りかける歌である。

そうだ。だから。
はしもとりお は、または夜に駆ける は、自分たちが歌う場所を「私たち」と呼ぶのだ。
そこには、これから出会う「君」も居る。
彼女たちが"抱きしめ合い"たいと願う「私たち」は、過去に出会った「君」でもあり、彼女たちの音楽を聴く現在または未来の、「私」によく似た「君」でもあるのだ。

だから観てくれ。そして聴いてくれ。
できればライブで。

「駆ける」夜と「泳ぐ」夜はきっと繋がっている。

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