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歴史好きが訪ねた、武田信玄公の世界!其の二

一、武田信玄の初陣

大永五年(1525年)父信虎と母大井夫人との間に弟次郎(武田典厩信繁:たけだてんきゅうのぶしげ)が生まれ、「甲陽軍鑑」によると、信虎は次郎を寵愛し、太郎を疎むようになっていったと記されています。
天文二年(1533年)扇谷(おおぎがやつ)上杉家当主、武蔵国川越城主上杉朝興(うえすぎともおき)の娘「上杉の方」が太郎の正室として迎えられましたが、天文三年出産の折、死産となり上杉の方も死去してしまいました。
天文五年(1536年)3月、太郎は元服して室町幕府第十二代将軍足利義晴から「晴」の偏諱(へんき)を賜り、諱(いみな)を「晴信(はるのぶ)」と改めました。
官位は従五位下(じゅごいのげ)大膳大夫(だいぜんだゆう)に叙位・任官され、元服後に継室(けいしつ:後妻のこと)として、左大臣三条公頼(さんじょうきんより:三条家十六代当主)娘「三条夫人)を迎えたのです。

海ノ口城全景
海ノ口城本郭

天文五年11月、信濃国(しなのこく:長野県)佐久郡海ノ口城(うみのくちじょう)攻めが行われましたが、これが信玄の初陣であるといわれています。
信玄は一夜にして落城させたとの伝承があります。
天文十年(1541年)海野平(うんのだいら)の戦い(武田・村上・諏訪(すわ)連合軍と共に滋野(しげの)氏一族(海野(うんの)氏、祢津(ねつ)氏、望月(もちづき)氏、真田(さなだ)氏、矢沢氏等)と佐久郡、小県郡(ちいさがたぐん)の領有権を巡った争い)に参加後、暴君であったと言われている父信虎を信玄と重臣の板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌(おぶとらまさ)等によって駿河へ追放したといわれています。

村上氏の城 荒砥城

二、武田信玄武田家統領時代の到来

ここに、信玄は正式に武田家第十九代目の家督を相続し、当主となったのです。
信玄は、精力的に領土拡大を進め、信濃の諏訪氏、高遠氏、大井氏、藤沢氏、村上氏、小笠原氏、仁科氏等を次々に攻略し、信濃をほぼ平定しました。
また、信玄は内政にも力を尽くし、領民の暮らしを守り、豊かな暮らしが出来るよう国造りを行いました。

信玄堤
聖牛

信玄の偉業を讃える例として、山梨県竜王町の釜無川と御勅使川(みだいがわ)の合流地点にある信玄堤(しんげんつつみ)は、信玄によって築かれた堤防です。
ここは毎年雨期になると大水が発生し、付近の住民は苦しめられていました。
信玄はここに堤防を築くことを計画し、天文十年(1541年)から20年弱の歳月をかけて完成させました。
御勅使川の流れを真っすぐに固定し、その主流を竜王の赤石にぶつけ、更に「将棋頭」と呼ばれる石組みを築いて水流を二分、その水が釜無川と合流するところに石組みを築き、水勢をそいで釜無川と順流させる方法を取りました。
最後に赤石の下流に1800メートル以上に渡る堅固な堤防を築いて樹木を植えさせたのでした。
利用耕地が少なく年貢収入に期待ができなかったため上記の治水事業を行い、新田開発を進め開墾しました。

信玄は京から公家を招いて詩歌会(しいかのかい)、連歌会(れんがのかい)を度々行っており、信玄自身も多くの歌や漢詩を残しています。
また、人としても親としても、その心にあたたかみがあり、嫡子義信に切腹を命じ廃嫡したことや、婚姻同盟による子女の受難などを招きつつも、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているのです。
さらに、行政や軍制が早くから整えられ、検地(測量)も行われ、領国支配の基盤が整えられました。
天文十六年(1547年)には甲州法度次第(こうしゅうはっとしだい:信玄家法、甲州式目ともいわれる)という分国法(独自の法律)を制定しました。

大小切税法(だいしょうぎりぜいほう:大切=米納(一部金納)、小切=金納の税法のこと。米が取れない地域のために制定された納税方法)や甲州金(こうしゅうきん:日本で初めて体系的に整備された貨幣制度と金貨)、甲州枡の甲州三法を制定しました。
甲州金などは江戸後期の文政年間まで鋳造されていたのです。
信玄公が定めた多くの制度は、徳川家康も大いに参考にし、徳川幕府に於いても生かされたのです。

天文二十二年(1553年)4月、越後の長尾景虎(上杉謙信のこと)を頼って村上義清他北信濃の豪族が越後へ逃亡すると、人情に厚い長尾景虎はその要請に応え、信濃出兵を開始しました。
これが川中島(かわなかじま)の戦いの始まりです。

三、川中島の戦いの始まりと領土拡大

武田信玄と上杉謙信の一騎討ち像

天文二十二年を皮切りに、永禄七年(1564年)まで計5回川中島での戦いが行われました。
信玄が5回も越後の上杉謙信と刀を交えた地、信州川中島、この辺一帯が戦場でした。
殊に、川中島古戦場として八幡原史跡公園のある場所は、第四次合戦「八幡原の戦い」に於いて、武田軍がこの付近に本陣を置いていたと伝えられています。
この場所には、有名な信玄と謙信一騎打ち(謙信が馬上から信玄に斬りつけ、信玄が軍配で床几に腰掛けながら軍配で太刀を受ける場面)の像があります。
八幡神社境内で、武田軍は討ち取った将兵の首実検を行ったとされています。

川中島古戦場 首塚

信玄は、松代(まつしろ:現長野市松代町)に前線基地として海津城(松代城)を築き、春日虎綱(かすがとらつな:高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)とも称する)を城代に置き、地域の領国経営の拠点としました。
後に海津城は、信州上田より真田氏が十万石で転封し、松代藩主真田家の居城となりました。
甲陽軍鑑によると、元々は武田氏の国衆清野氏の館を接収し、山本勘助に命じて築城されたと記されてあります。
近年、松代城の復元作業が行われ、石垣や門構えなどが復元されています。

海津城(松代城)
海津城(松代城)天守台

この間に、甲斐、相模(北条)、駿河(今川)との三国同盟が締結され、信濃南部、上州(じょうしゅう:上野国こうずけこく、群馬県)、駿河(するが:静岡県)をも平定し武田水軍まで組織したのです。
永禄二年(1559年)2月、信玄は長禅寺住職の岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を導師に出家し、「徳栄軒信玄(とくえいけんしんげん)」と号しました。
元亀二年(1571年)北条氏(ここで登場する北条氏は、鎌倉北条氏ではなく早雲から始まる後北条氏のこと)との和睦を回復しました。
この時、武田家の領土は、甲斐一国、信濃国(しなのこく)、駿河国(するがこく:静岡県中部)、上野国西部、遠江国(とおとうみこく:静岡県西部)、三河国(みかわこく:愛知県東半部)、飛騨国(ひだこく:岐阜県北部)、越中国(えっちゅうこく:富山県に属する)の一部にまで及び、石高にすると凡そ百二十万石でした。
信玄は政略結婚も厭わず同盟関係を構築していったのです。
信玄の嫡男、武田義信の正室として駿州(駿河のこと)今川義元の娘嶺松院(れいしょういん:信玄の姪)を迎え、信玄の娘を相州(相模のこと)北条氏政(ほうじょううじまさ)に嫁がせ、織田信長の娘(養女、遠山直康の娘)が信玄の四男武田四郎勝頼(諏訪四郎勝頼)に嫁ぎ、信長の嫡男織田信忠と信玄の娘松姫との婚約が成立していました。
元亀二年、織田信長は比叡山焼き討ちを実行、この時信玄は信長を「天魔の変化(てんまのへんげ)」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図ったのだそうです。
天台座主(てんだいざす:天台宗の最高位)の覚恕法親王(かくじょほうしんのう:正親町天皇(おおぎまちてんのう)の弟宮)も甲斐へ亡命し、仏法の再興を信玄に懇願したそうです。

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