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憧れに許可なんて必要ないのにね

前の記事を読んでいてふと思ったことがある。
私はなぜあの頃、理想の文章を書く人を見つけたのに
そこに憧れることなくその方向の道を全部閉ざしてしまったのだろう。
普通なら「よーしこの人みたいになるぞ!」ってなるんじゃないのか。

当時の私は変にプライドが高くて卑屈で
何かに憧れるというのに妙な抵抗があった。
ほら、美容院行くときたとえ髪型だけ真似したくとも
好きな女優さんの写真見せるのが恥ずかしかったりするじゃない?
あれの極端なやつ。
「お前そんななのにこんな人に憧れてるんだw」
「なれるわけねーだろ」
そんな誰かの(今思えば私が作った)言葉が常に頭の中に響いていて、
それなら憧れなんて作らない方が平和だったのだ。

今はだいぶ自分のことも好きになってここまでは考えないのだけど
相変わらず「推しには認知されたくない」とか言ってるあたり
いまだ「憧れ」に対する過剰な苦手意識がある。

でも「憧れの人を作る」っていうのは自分を成長させる上でとても大事なことだ。だって憧れっていうのはとてもわかりやすいロールモデルなわけで、努力すべき方向性の具現化と言っても過言ではない。
自分のゴールをわかりやすく示す人間がいるのならそれに越したことはない。

と、いう考え方をできるようになったのは実は娘のおかげである。

我が家の長女には「憧れの人」がいる。
恋かと思ったがそうではない。
「憧れの人」は男女どちらもいるし、娘はその人に近づきたいというよりその人のようになりたいのだという。

娘は憧れで成長する名人だ。
「この人かっこいいな」と思ったらとことん目指す。
事細かく観察して「こういうところがすごい」をいっぱい見つける。
真似できるところはとことん真似するし
面倒だと思ったことも「あの人ならやると思う」で取り組める。
憧れの人本人にも「どうしたらそうなれるか」聞いたりする。
1人の人に固執はしない。
いろんな憧れを作って、がんがん取り入れようとする。
娘の努力の方向性はいつもはっきりしている。

娘は小学校入学当時、正直ぱっとしない子だった。
おとなしく、トラブルは起こさないが、特段何かが得意なわけでもない。
懇談会では話すことが尽きて先生が苦笑いするような子。

一年生、字がきれいな子に憧れて
二年生、フラフープが上手な子に憧れて
三年生、算数が得意な子に憧れて
四年生、鉄棒が好きな子に憧れて

気づけば娘の成績は下の上から上の下くらいになっていて
運動神経が良いとか、練習めっちゃするとか
いろんな人に一目置かれるような子になっていた。

五年生になり、娘は新しく放送委員の子に憧れているのだといった。
今日、娘が放送委員でお昼の放送をやると聞いたので
図書ボランティアにかこつけて聞きに行くと
娘の声だと気づけないくらい、ハキハキした放送が聞こえてきた。
そのあとは憧れの子の声だろうアナウンサーみたいになめらかなしゃべり。
これは憧れるよなぁと納得した。今度はこうなろうとしてるのかぁ。

娘は憧れることを一切恥じない。
というかそもそも憧れることは恥ではないのだと娘を見てやっと気づいた。
憧れの人を目指して努力するというのは
憧れの人本人には知ったこっちゃないし、何も影響しない。
ただただ、自分を成長させるための手段の一つだ。
憧れの人をそっくりそのまま目指す必要もないんだから
変なあらさがしをしたり、自分との価値観の違いに悩む必要もない。
尊敬できるところだけをただ貪欲に取りにいけばいいのだろう。

憧れは私の心の中だけのものだから、許可なんて必要ない。

私もがんがん憧れの人を作ろう。
その能力を盗りにいこう。






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