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【小説】『夏は終わったんだよ』

玄関のドアを開けて、あっと息を飲む。

風が冷たい。

ツンと鼻を刺すように冷たい。

秋の風だ。

室内のこもった、丸くて生ぬるい世界から、きりっと尖った空気の世界へ。少し緊張するけど、気持ちの良い具合の張り詰めた空気。

「どうかしたの?」

玄関先で立ち止まってしまった私の後ろから、眠たげにかずきが聞く。

でも、かずきにはこの気持ちの良さが分からないだろう。昨日の夜も遅くまで起きて、ゲームをしていたようだし。

この空気が素敵だと言っても、寒い寒いと言って、喧嘩になるだけ。

「……なんでもないよ。行ってくるね」

そう言って、私はろくにかずきを振り返りもせず、玄関をがちゃんと閉めた。

駅までの道を歩きながら、あんなに暑かったのが嘘のようで、寂しいような、ほっとしたような気持ちになった。

これから、季節はあっという間に冬に向かうのだろう。

かずきの嫌いな冬。

かずきは極端な季節が苦手だ。だから、冬も夏も家にこもりにきりになる。電気代、ガス代がかかって仕方がない困った息子だ。

彼が学校に行かなくなって、はや3ヶ月。

家でちゃんと勉強するといいながら、のんびりしたもので、焦る様子もなくゲームやネットで買った漫画を読んで笑っている。

昼間、私は仕事に出てしまうから、彼の日中の本当の姿は分からない。

彼は今後の、自分の人生をどうするつもりなんだろうか。

今は学校へ行くことが全てではないという人もたくさんいるし、フリースクールなども充実してきた。

でも、私はやはりたくさんの人に揉まれて、人間は育つと思う。人間は社会的な生き物だから。

家にこもりきりで、大丈夫なんだろうか。

今考えても仕方がないと、私は頭を振って、不安を打ち消そうとした。

夏休み前あたりから、かずきが学校を嫌だと言い出して、私は正直愕然とした。

まさか、自分の子が?

不登校の子が増えているとか、学校に馴染めない子がクラスの何割という割合でいるという話は、よく聞いている。耳にタコがてきるほど聞いて、「常識」としては、理解があるつもりだった。

でも、いざ自分の子がそうなると、どう対応していいのか分からない。

聞いてはいけないとか、そういう対応をしてはいけないというNG言動を連発した。

「誰かにいじめられてるの?」

「何が嫌なの?」

「学校は楽しくなくても、行くところよ」

かずきの意思はかたく、私が問い詰めるほどに、頑なに「学校には行きたくない」と壊れたテープレコーダーのように繰り返し、私が期待する説明を拒んだ。

学校に行きたくない、行きなさい、行きたくない、行きなさいの押し問答を朝から何日も繰り返した後、先に折れたのは私だった。

疲れてしまったのだ。

彼の将来や、学校という場所で育まれるはずの人間力の可能性みたいなものを、私は親として放棄した。最低な親だ。

自分の育て方が悪かったのだ、とも思った。でも、私はシングルマザーで、かずきと2人きりで生きている家の中での険悪な雰囲気が続くことに、嫌気がさし、そしてかずきの強情さに根負けした。

優柔不断なかずきが今までにないほど、強情に言い張るのも、何かわけがあるのかもと思ったのも事実。

とりあえず、数日は様子見のつもりで、言い争いをやめて、「行かないの?」とだけ聞いた。

「うん、行きたくない」

かずきはあっさり、きっぱりしたものだった。私はどうしようという不安と、情けない気持ちを抑えて、「そう」とだけ言った。

それ以来、私はかずきに「学校に行きなさい」と言うのをやめた。

一度負けたからと言って、かずきの将来から撤退するのか、諦めるのかと自分でも思うが、よくよく観察してみれば、学校に行っていた時よりも、かずきの顔色はよく、元気にご飯を食べ、私と学校に行くとか、行かないとかで揉めないことが分かると、表情も明るくなった。

あどけなさがまだ残る顔で、夕飯を待ちながら寝落ちしたかずきの顔を見ると、彼は彼なりに学校で戦ってきたのかもしれないと思った。

家が安らぎの場所になるなら、段々それでもいいかと思えてきた。誰にだって休息は必要だ。

それでも不安が残る。毎朝、学校に「お休みします」と連絡するのも、億劫だし、恥ずかしさがある。

最初は親身になっていた電話口の事務の人も、3ヶ月の間には、「またですか」「今日もですか」という雰囲気に変わってくる。

息子の学校の休みの連絡くらいと思うのに、こんなに惨めな気持ちになるのが、嫌でたまらなかった。

休むのは自分ではないのに。なんで私が矢面に立って、こんな気持ちにならなきゃならないの。

そりゃ、あんたがあの子の母親だからだよ。

分かっているのに。

かずきが休むのだから、自分で電話くらいしたらいいのに。子供が自分で休みの連絡をいれられないことを分かっていながら、理不尽にも思ってしまう。

どこかで、かずきの不登校を認められない自分、学校にちゃんと行って欲しいと思う自分、なぜ彼が学校に行かないと言うのか分からない、もどかしさを抱えたままの消化不良な自分がいる。それなのに、学校に毎日毎日休む電話をしなければならない自分は、目隠しをされて、こき使われている愚かな伝書鳩のような気がする。

「すみません、今日もお休みします」

会社の始業前の談話室で、コソコソと学校に電話をする。

学校の事務の人は、ため息をついてから、何か哀れみのこもったような声音でこう続けた。

「お母さん、これじゃあ、かずきくんは本当に不登校ということになりますよ。小学校だから、卒業はできますけど。今6年生でしょう? 中学校からどうされるんですか?」

そんなこと、と思った。

何度も何度も考えた。不安になった。今も不安でたまらない。

他人のあなたに、ため息混じり言われることじゃない。

「あなたに、何が分かるんですか!」

カッとなって思わず言い返した。

声が大きくなって、談話室にいた数名がチラチラとこちらを見てくる。

「かずきが学校に行かない理由なんて、私だって知りたいですよ。でも行かない、行けないって言うのだから、仕方ないでしょう!」

事務の人はやれやれと私をたしなめるように続けた。

「そこは、お母さんでしょう? もっとお子さんに親身になって、分かってあげなきゃ。どうしたら学校に行けるか、これからどうするか、親子で話し合わなきゃいけないんじゃないんですか?」

そんなこと……。そんな正論を言われたれたって……。

「でも、まあ、お母さんがそんな及び腰で逃げてちゃ、お子さんもかわいそうですよ」

私が逃げてる?

私が及び腰?

かずきがかわいそう……?

どこかでそうやって批判されるのを恐れていた。

でも、「私は違う」と本当に胸を張って言えるのか。

かずきの気持ちをわかってあげる努力が足りないと言われて、すぐに反論できない。

「じゃあ、今日もお休みということで、担任には伝えておきますので」

私の返事を待たず、電話は一方的に切れた。

つーつーという電話の音を聞きながら、私は携帯電話を耳に当てたまま身動きが取れなかった。

かずきから逃げてる、のかな、私?

現実から目を背けているだけなのかな、私?

なんとかなるって、どこかで、かずきがまた学校行くって言うんじゃないかって、期待して待ってるだけ? 母親をサボっているのかな……。

考え始めると、どうしようもなく孤独で、苦しくて、なんでだよと叫びだしたくて、膝の上にぽつんと雫が落ちた。

ひとつ落ちると止まらなくなって、ふたつ、みっつ。

もうここで止まらなくては。

止めなくては。私には自己憐憫なんかに負けてる時間はない。

下を向いたまま、横にあるトートバッグからハンカチを探り出し、急いで顔と膝を拭った。

でも溢れ出すものは止まらない。

どうしてよ!

かずきは私が何を聞いても、なんにも説明してくれない。

説明を拒む。

それでも、私が怠けていることになるの?

かずきから、家という居場所を奪いたくない。安らぎの場所を奪いたくない。

かずきにはもう、私しか保護者がいないのだから。

問い詰めて、追い詰めることなんて、いつだってできた。

だから、やらなかった。

だから、できなかった。

始業のベルが鳴る。

もうこんな時間になったのかと、慌てて腰を浮かせた。

メイクはどうせぐちゃぐちゃだろう。せめてもとマスクをして、事務所に駆け込む。

「珍しい、遅刻?」

「風邪でもひいた?」

同僚からの言葉に、曖昧に頷いたり、首を振ったりしながら、タイムカードを押して、席に着いた。

パソコンを立ち上げると、立ち上げる度に変わるデスクトップの背景画像が、真っ赤なもみじの風景だった。

そっか、秋になったんだっけね。

かずきは知らないだろう。家にこもりきりで、エアコンをずっとつけて、半ば昼夜逆転生活をしている彼が、季節が移り変わったことを知る術はないだろう。

夏はもう終わった。

そうだ、かずきの嫌いな夏は終わったのだ。

スマホを取り出し、今度の週末の天気を調べた。

どうやら一時的に雲は出るものの、終日晴れる予報だった。

散歩にでも連れ出そうか。

ありがち、と思った。かずきに足元を見られるかも。

でも、夏が終わったことだけでも、かずきに伝えたい。

私はかずきのことを何も知らないのだ。だったら、説明を待ってちゃいけない。これからも、かずきと生きていくのだ。

少しづつでも、変わっていけるだろうか。

私は。かずきは。

そして、未来は。

やがて、デスクトップは私のIDとパスワードを入力する画面になった。

【今日の英作文】
「会社で自分より立場が上のマネージャーにも、彼女はタメ口を使います。」
"She uses casual Japanese to the manager who is above her in the company.''

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