【小説】『この手を』
黙って、山と積み上がっている洗濯物をたたんでいた。
家族の中で一番早起きをして、静かに静かに音を立てないように、食洗機の食器を片付け、洗いカゴの中のタッパーの隅の溝を布巾で拭いて片付ける。
夏でも真っ暗なこの時間に、私は何をしているんだろう。
新聞配達のバイクの音で、私は毎朝起床する。
家族が起きてくるのは、6時。
その時間まで私はひたすら、前日に終わらず、残された家事を淡々とこなす。
それが、私の役割だから。
無職で、役立だずな私がするべきことだから。と、私が思っているから。
こういう家事をしてほしいと、家族から口に出して要望されたことはない。
でも、望まれているのは知っている。「やってくれれば嬉しい」という、曖昧で卑怯な言い方で、心の底から望んでいるのを知っている。
私は知っている。
どんなに婉曲に取り繕っても、本音では「家事のひとつやふたつ、それくらいしても、バチは当たらないでしょ」と思われていることを。
家に一日中いるのだもの。
大したことじゃないでしょう?
そうだ。大したことじゃない。4時に起きて、家事をすることくらい。大したことじゃない。
感謝もされないし、喜ばれもしない。私がして当たり前だから、それも仕方がない。
大量の洗濯物と格闘し、食器を片付け、朝ごはんの炊飯器のスイッチを押す。
私が家事をするようになったら、朝の仕事がどんどん増えていく。
6時頃にやかんのお湯が湧くように、ガス火もつける。
パチパチとガスが青い火を丸く付けるさまを見ながら、ここにいていいのかとふと思った。
本当は、こんなところから逃げた方がいいのでは。
冬の寒さと乾燥で、がさがさになって、あかぎれができた手指が痛い。
いつか、私はこの手をいたわってもらえる日が迎えられるのだろうか。
真っ暗な外が、すりガラス越しに朝日が昇って薄ら明るくなっていくのが分かった。
もうすぐ、家族が起きてくる時間だ。
私が自分の部屋へと退散する時間。家族が出勤してから、私は朝ご飯を食べる。
まるでいない人みたい。
家族じゃないみたい。
都合のいい家事担当人。でも、それでも仕方がない。これが、私がこの家にいていい対価だから。
私は家事をすることしか、この家にいる意味や理由が見いだせない。分からない。
カタンと、2階で引き戸が開く音がした。母親が起きたらしい。
ごとごとと襖を開けて、布団をしまう父親の物音も聞こえてくる。
ガス火を見つめながら、ぼんやり考える。
ねえ、私を娘だと本当に思ったことはある?
ねえ、こんな私でも本当に生まれてきて良かったと思ったことはある?
ねえ、役立たずの私が、この家にいてもいいと思ったこと、ある?
ないよね。
役に立たない、恥知らずな、就職に失敗した30過ぎの娘なんか。
だから、すくなくとも「役割」だけでも全うしなきゃ。
そう必死に縋り付くように思っている娘のことも、知らないよね。
どんよりした頭で、私はお湯が沸いて、湯気を吹き出し始めたやかんの火を止め、あと数分で炊きあがる炊飯器のチェックを再びした。
これを続けるしか、私には今生きる方法が見つからない。
見つからない。
見つからない。
分からない。
もっと振り切れたらいいのに。家事のやり忘れとか、失敗とか、寝坊とかを堂々とできたらいいのに。
このあかぎれだらけの手を、両親は知らない。
「おはよう」と欠伸をしながら、キッチンに母親が入ってきた。
「おはよう」
私は答えてから、「行ってらっしゃい」と言って、そっと自分の部屋に戻る。
この手を知らない家族を思った。
失敗作の私には、お似合いなのかな。
部屋に戻ると、毎日のことで、毎朝のことなのに、石を飲んだような気持ちになって、柱に寄りかかってずるずると座り込む。
いつか、いつか、きっと。
でも、いつかなんて、きっと来ない。
【今日の英作文】
この歌手による歌はいつも私を元気づけてくれます。
Songs by this singer always cheer me up.
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